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〜これぞ、甘美な悪夢〜「憐れみの3章」を考察

第80回ヴェネチア国際映画祭金獅子賞受賞、
第96回アカデミー賞11部門ノミネートされた「哀れなるものたち」でその才能を確固たるものとしたヨルゴス・ランティモス監督。
最新作である「憐みの3章」が9月27日より日本公開されました。

今作は「哀れなるものたち」のキャスト・製作陣が再集結。3章から成る物語の中で、同じキャストがそれぞれの章で別のキャラクターを演じる斬新なオムニバス構成です。

その3章は《R.M.F.の死》、《R.M.F.は飛ぶ》、《R.M.F.サンドイッチを食べる》。
それぞれR.M.Fという男のイニシャルがキーとなり、全く別の世界線から成る3つの物語が複雑に絡み合います。

「哀れなるものたち」では、不幸な死を遂げた女性が幼児の脳を移植され、新たな命を得て自立していく成長を描く、比較的分かりやすい作品でした。しかし、この「憐れみの3章」は、構成から物語まで何もかもが真新しく、不可解で、カオス。

「人間性」がテーマにされた今作は、またもや私たちを最高に痺れさせるスパイスがふんだんに使われていましたので、構成ごとに描かれた背景を分解していきたいと思います。

①《R.M.F.の死》

第一章は「自分の人生を取り戻そうと格闘する、選択肢を奪われた男」を描いた物語。

主人公の男・ロバートを「パワー・オブ・ザ・ドッグ」「キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン」等で近年存在感を放っているジェシー・プレモンスが演じます。

ロバート(ジェシー・プレモンス)

物語は"R.M.F"とイニシャルがあしらわれたシャツを着た男が、とある豪邸を訪ねるシーンから始まります。そこはレイモンド(ウィレム・デフォー)という男の家であり、その妻であるヴィヴィアン(マーガレット・クアリー)が"R.M.F"を見定め、レイモンドへその情報を共有していました。

シーンが移り変わると、車に乗った主人公・ロバートが街の交差点で、ブルーのBMWへわざと突っ込む衝撃的な映像が流れます。
ロバートはなんとか自力で車から脱出し、ボロボロになったBMWの中を見ると、中にはロバートへ冷たい視線を送るほぼ無傷のR.M.Fがいました。

冒頭のシーンから推測すると恐らく、R.M.Fはレイモンドたちの元へ"死"を求めてきた依頼人なのではないかと思います。(自殺願望者?)

そして、R.M.Fが乗った車へわざと突っ込んだロバートはレイモンドの部下であり、とんでもない依頼にも従うしかない服従の関係性が見えます。

結局、殺しに失敗してしまったロバートはレイモンドを訪ね、「人の死の責任を負うようなことはできない」と依頼を断ります。
反発するロバートに対してレイモンドは、この仕事を受けないのならば、今後の関係を断つと怒り心頭します。

謎の男・レイモンド(ウィレム・デフォー)

レイモンドの怒りを買ってしまったロバート。彼の周りからは、今までレイモンドから与えられてきたものたち全てが姿を消していきます。

仕事はもちろん、プレゼントとして贈られた有名テニスプレーヤーのプレミア付テニスラケットなどの"モノ"から、彼の薦めで出逢った最愛の"妻"まで……。レイモンドと関わる中で提供されてきた存在を一気に失い、ロバートは強い喪失感を味わいます。

全てを失った彼は、なんとか妻や失ったモノたちを取り戻そうとあらゆる手を使い奮闘しますが、結局、上手くいきません。
そんな時、バーの中にいたリタ(エマ・ストーン)という女性が目に留まり、彼女を手に入れるべく、わざと足に怪我を負い接近します。

リタ(エマ・ストーン)

作戦は成功し、リタと接近したロバートは彼女をディナーへ誘います。承諾を得て、ディナー当日を迎えましたが、そこにリタは現れませんでした。

音信不通になり諦めかけていた時、リタから返事がありました。リタはディナー当日に交通事故に遭い、入院していたのです。
ロバートが彼女のいる病院へ見舞いに行くと、ちょうど彼女の部屋からレイモンドとヴィヴィアン夫妻が出てくるところを目撃してしまいます。

ロバートはリタを怪しみ、交通事故にあった経緯を聞くと、彼女もブルーのBMWへ突っ込み怪我を負ってしまったとのことでした。そして、中に乗っていた男性(R.M.F)はまだ生きているということも知ります。

リタ自身、何故車に突っ込んだのかの記憶がありませんでした。恐らく、レイモンドたちの手によって何かしらの操作をされてしまったのでしょう。
ロバートは、自分が手に入れようとするモノは全て、レイモンドに包囲されており、奪われてしまう運命を悟ります。

そこで彼は瀕死状態のR.M.Fを運び出し、車で轢き殺しました。
そのまま、レイモンドたちの元へ戻り、成果の報告と共に失った"モノ"を取り戻すのです。

第1章であるこの「R.M.Fの死」では、選択肢を奪われた窮地の男の姿を描いています。

レイモンドとロバートの会話を聞いていても分かりますが、2人の中には完全に上下関係が出来ており、ロバートはレイモンドへ服従する形でその対価を得ています。(仕事や妻やプレゼント等)
反対に、レイモンドは常に与え、奪う権力者。"従順"を基準として、対価を与えます。それに反発するのであれば、与えたものを奪うのです。

レイモンドとヴィヴィアン(マーガレット・クアリー)

今まで何一つ文句を言わずに服従してきたはずのロバートから拒否を受け、与えてきたモノを徹底的に奪い取るレイモンドの様はある意味、社会そのものを表していると言えるでしょう。

社会の歯車として、働く代わりに金や家、結婚等の対価を手に入れる。これがこの世界の仕組みであり、私たちは社会の中で強情することは出来ないのです。

そして、手に入れかけたリタが引き離されたように、社会へ反発する者は、自分の力だけで価値あるものを手に入れられない。結局、価値を手に入れるには、価値を提供する者に服従するしかない悲しい現実を突きつけられる章です。

②《R.M.F.は飛ぶ》

第2章となる《R.M.F.は飛ぶ》では、「海難事故から帰還するも別人のようになった妻を恐れる警官」の物語です。

今回は妻の帰りを待つ夫・ダニエル役にジェシー・プレモンス、失踪した妻・リズ役をエマ・ストーンが演じています。

警官のダニエルは、妻・リズが消えてから毎日必死にリズの帰りを渇望し、待っていました。
そんなある日、リズが無人島で保護され、ダニエルの元に帰ってきました。

しかし、帰ってきたリズは、嫌いだったチョコのケーキを食べたり、履いていた靴のサイズが合わなかったり…以前のリズとはまるで別人のような言動が目立ち、ダニエルは不思議に思います。そして、次第に帰ってきた女はリズと別人なのではないかと疑い始めるのです。

ダニエルはリズ本人へ「君は僕の妻じゃない」と言い張り、リズは全力で否定していきます。共通の友人も『無人島にいて飢餓状態だったから仕方がない』と否定しますが、ダニエルは納得できません。疑い続けるうちに、彼は精神を病んでいき、部屋に篭り食べ物を口にしなくなりました。

そんなダニエルの姿を見て、リズはなんとか食べさせようとしますが、彼は食べることを断固拒否します。リズが腹の中に宿った命の報告をしても、ダニエルは「家から出ていけ」の一点張り。偽物の疑いをはらすため、リズはダニエルの過剰な要求に応えていきます。

リズは、自作自演で傷を負い腹の子を堕ろし、ダニエルがリクエストした自分の親指とカリフラワーを炒めたメニューを作るために親指を切り落とし、最終的には自身の肝臓(レバー)をメニューにするため腹を切り、肝臓を取り出して死にました。
最後、ダニエルが部屋から出て、肝臓を取り出して死んでいるリズを素通りし、家のドアを開けると死んだリズと瓜二つのもう1人のリズがいました。そのまま2人は抱き合う……という不可解なラストで幕を閉じます。

結局、先に帰ってきたリズと、後に帰ってきたリズのどちらが本物だったのかはハッキリとわかりません。恐らく、ダニエルは精神を病んでいたので、後に帰ってきたリズは妄想だった可能性があると勝手に推測しています。

しかし、先に帰ってきたリズの行動は常軌を逸しており、本物である証明をするにしたって極端すぎやしないか!?と止めに入るレベル。

なので、想定できるパターンを以下に載せておきます。
1.本物
→愛する夫の為にした行動

2.別人
→手に入れた場所を失わない為の行動

3.犬
→犬の性質である忠誠心から来る行動

1.については、愛故の極端な行動と納得させれば、まあ、なんとなく分かる気がします。
2.は、人間の窮地に陥った時に出る極端さを描いたと言われれば、ランティモス好みのテーマなので納得。
3.であれば、リズが漂流した無人島が"ドッグ・アイランド"という犬が支配する島で、リズと犬が入れ替わったか。もしくはリズの心がが犬になっていったのか……。犬=忠誠心を表す存在なので、リズの行動に重ねてみると、なんとなく説明がつくような気もします。

1.だとランティモス監督の描くテーマにしては、少しシンプルでライト過ぎる気がするので、2.3がミックスされているのかな……。

エンドロールでも犬が人間と同じように生活して、車を乗り回している映像等も流れるので、犬に支配された人間=リズになるという解釈もできます。

車を乗り回す犬たち

これは私の憶測に過ぎませんが、旧約聖書に絡めてみると、犬は愚かな動物として扱われています。
箴言26:11には「犬が自分の吐いた物に戻って来るように、愚かな者は自分の愚かさを繰り返す」と記されている。要約すると、"犬のように自身の愚かな行動を繰り返すな"という教え。

上記の旧約聖書に当てはめてみると、精神を病んだダニエルが犬として描かれているのではないか?とも解釈できます。

最愛の妻を別人だと疑い初めたダニエルは、無理難題で過激な要求でリズを試していきます。浮気を疑いはじめたら全てが怪しく見えてしまい、ケータイを覗き、それがバレて関係が終わってしまうカップルあるあるに近いかもしれません。
カップルや夫婦関係において、事実がどうあれ、互いを信用し合うことが一番大事であり、それが関係を維持する秘訣でもあると思います。

それで言うと、ダニエルは後に帰ってきたリズに対しても、少しでも違和感を感じればまた同じように試す行為を繰り返すのではないでしょうか。本当は先に帰ってきたリズが本物だったのではないか、と。

疑い始めるとキリがない。人間が猜疑心に蝕まれてゆく姿を、旧約聖書に記されている愚かな犬に重ねて描きたかったのかもしれません。

まあ、これはあくまで私の考察ですので、正解とは言い切れませんが。なんとも曖昧で、難解な章です。

③《R.M.F.サンドイッチを食べる》

最後の第3章では「奇跡的な能力を持つ特別な人物を懸命に探す女」の物語。

特別な人物を探す女・エミリーにエマ・ストーン、相棒のアンドリューにジェシー・プレモンスがキャスティング。

エミリーは"オミ"というカルト教祖に仕えた一人であり、集団から抜け出す為、課せられたミッションを遂行していました。それは、新たな教祖に変わる人物を探すこと。そしてその人物は、以前自身の命を救った治癒能力を持つ女性でした。

その候補となる女性を見つけては能力を試す日々。病院で女性の身体のサイズを事細かに測り、10分だけ死体を借りて死体を生き返らせることが出来るか試す。もちろん、候補者の女性は治癒能力などなく、エミリーたちは苦戦していました。

候補者の女性

エミリーがカルト集団に入った経緯こそ描かれてはいませんが、抜け出したいと感じている部分は所々に散りばめられていました。
教祖オミとの定期的な性行、オミ以外と交わったものは汚れていると見なされ、高温のサウナ室に倒れるまで汗をかいて不純物を取り除かなければいけないこと…等。ああ、カルト。

教祖・オミ役にはウィレム・デフォー

実はエミリーには家庭があり、夫と娘から離れてモーテルに寝泊まりする生活を送っています。しかし、エミリーは相棒のアンドリューが寝静まった頃に自宅へ戻り、娘の誕生日プレゼントを置きに行ったりと、頻繁に家とモーテルを行き来します。恐らく、母親としての愛情と責務の念から来るものなのでしょう。

カルト集団に洗脳され出家はしたものの、母親としての人生も捨てきれず、その狭間で揺れ動くエミリー。
そんな彼女の元に、レベッカ(マーガレット・クアリー)という若い女性が話しかけてきます。彼女は何故か、エミリーを知っており、治癒能力を持つ女を探していることさえも知っていました。そして、その治癒能力を持つ女が自身の"双子の姉・ルース"であることを教えてくれます。

治癒能力を持つルースの双子の妹・レベッカ

不審に思ったエミリーはそこで取り合いませんでした。しかし、エミリーは家に戻ったタイミングで夫に睡眠薬を飲まされ無意識のうちに犯されてしまいます。そしてそれをカルト集団の仲間たちに知らされ、清めのサウナへ入れられるが毒素が抜けず「無垢でない」と判断され、教団から追い出されてしまいます。

抜け出したいとうっすら感じていたエミリーでしたが、いざ追い出されるとパニックになり、必死に縋りますが誰も戻ることは許してくれませんでした。

その後、エミリーはレベッカへ会いに行き治癒能力を持つ姉のルースについて話を聞きます。
レベッカもかつて、酔った勢いで水が張っていないプールへ飛び込み頭を打ち、死にかけたことがありました。しかし、意識を取り戻すと、頭に傷一つ残らない状態で目覚めたといいます。

その話を聞き、エミリーは姉の居場所を教えてもらい、能力を確かめることにしました。
姉のルースは獣医師で、街の外れにある小さな動物病院に勤めていました。
エミリーは野良犬を捕まえ、わざと足に切り傷をつけて病院へ行きます。ルースに手当てしてもらった犬の傷は一瞬にして治っていました。

治癒能力を持つ双子の姉・ルース

ルースが持つ治癒能力に確信を得たエミリーは、再度病院へ行き、彼女に睡眠薬を打って誘拐します。

そして、候補者たちを試していた病院に向かい、ルースの手を死体の男に触れさせると、たちまち息を吹き返しましたのです。そして、その息を吹き返した男は第1章でロバートによって轢き殺されたR.M.Fでした。

本物の超能力者を見つけたエミリーは、喜びの舞を踊り、車を爆走させカルト集団たちの元へ向かいます。これで自分の汚れを総裁し、認められ、元の場所に戻れるという興奮の中、よそ見した際に車はクラッシュしてしまいます。

後部座席に乗せられていたルースは、外へ吹き飛ばされ死んでしまいました。エミリーの絶望を映し、第3章は終わります。

第1章、第2章ときて、個人的にはこの第3章が一番滑稽で哀れな人間の姿が映っていたように思えます。
組織から抜け出す為の目的が、組織に戻るための目的に変わる逆転の構図。せっかく見つけた希望(ルース)を自分のせいで失ってしまう愚かさ。この映画のクライマックスに相応しい、最も人間的な人物像が描かれていました。

そして気になるのは、ルースの存在。ランティモス監督が2017年に公開した「聖なる鹿殺し キリング・オブ・ア・セイクリッド・ディア」では、家族の中の一人が死なねば家族全員が死んでしまうというトロッコ問題とギリシャ神話を絡めた物語で、一番無垢で清らかな心を持つ次男が殺されるというラストがあります。

ギリシャ神話の悲劇である『アウリスのイピゲネイア』の話がモチーフになっていると言われており、神の怒りを沈めるための生贄である娘の代わりに、鹿を祭壇に捧げるという話。
外科医の主人公が、自身の過失によって殺してしまった父親の息子から復讐され、一番罪のない純粋な息子(聖なる鹿)を犠牲にするという、人間の自己中心的で愚かな部分は、この第3章にも通ずるものがあります。

また、インド神話にはアシュヴィン双神という双子の神が存在します。その双子は治癒能力を持っていたと言われており、長年にわたって人間の傷を癒してきたそうです。

神話等の非現実的な存在を度々作品に織り込むランティモス監督であれば、ルースとレベッカはアシュヴィン双神をモデルにしたキャラクターの可能性もあります。

エミリーが属していたカルト集団も、教祖を通じて神を信仰するもの。己の愚かな行いによって、自ら希望(神)を潰すという人間の救いようのない姿がなんとも哀れでした。

まとめ

3つの章からなる今作は、それぞれ設定やキャラクター、物語が違えど"承認欲求"がかなり細分化されて描かれていました。

そして、どれも失ったものを取り戻す為の承認欲求であることが共通して言えるのではないでしょうか。(第1章:モノ/第2章:信頼/第3章:居場所)

ランティモス監督が「"人間性"をテーマにした」という言葉通り、人間が失ったものを取り戻す為に取る究極の選択や行動がいかにも、本性が出る姿であり、それこそが人間の真の姿なのではないかとも感じます。現代では本音と建前が当たり前になり、その人の真の人間性を知る場面は殆どないでしょう。ランティモス監督が描くユーモアとグロテスクさを交えたキャラクターたちの行動は、なんとも愚かで、人間臭い。

タイトル「憐れみ」の意味

日本公開タイトルは「憐れみの3章」で、原題は「Kinds of Kindness」。原題を直訳すると、『親切(優しさ)の種類』という意味になります。原文ママだとなかなか伝わりにくい部分があるのかなというので「憐れみの3章」になったのだと思います。前作「哀れなるものたち」が国内でもかなり話題になった為、「哀れ」と「憐れ」で繋げたのでしょう。

ただ、今作の「憐れ」は、「哀れ」と同じ"かわいそう" "同情する"意味とは別に"愛おしい"という意味が込められています。
自分で自分の首を絞める人間の姿は真に愚かで哀れ。そのどうしようもない姿を見て感じる究極の感情が"愛しさ"なのではないかと。

確かに、どうしようもないヤツほど可愛く愛おしく見える感情というのはまさに、この3章で登場したキャラクターたちに当てはまるものでしょう。

結局、R.M.Fってどんな存在?

そして、キャラクターといえば一番気になるのは"R.M.F"の存在。3章ごとに違う世界線で物語が描かれていますが、R.M.Fのみが全ての章のタイトルになっており、第1章で殺されたR.M.Fが第2章でリズをヘリコプターで救い出し、第3章ではルースの手によって息を吹き返します。そして、最後のエンドロールでサンドイッチを頬張る姿が映され、幕が閉じるのです。

ランティモス監督によると、R.M.Fというキャラクターはそれぞれの章を繋ぐ存在だそうです。
世界線は違えど、どの章でもキャラクターたちの運命をスイッチさせるキーマンとしての役割を担っており、運命を具現化した存在がR.M.Fなのではないかと思います。
ただのオムニバス映画ではなく、全ての章が複雑に絡み合っている。そして、人生に共通する"運命"が、私たち人間を到達すべき結果へ導くことをR.M.Fの存在を通して伝えてくれたのではないでしょうか。

ランティモス作品の中でも特に難解であった今作、レビューを書く上で様々な考察が次から次に出てきてしまい書き終えるのに大分時間を要してしまいました……。
彼の頭の中を完全に理解することはなかなか難しいですが、観る者へ憶測する楽しさを与えてくれる才能に拍手。もっともっと複雑でユーモラス溢れる作品たちを今後も生み出して欲しいと、一ファンとして思います。

また、キャスティングされた俳優陣も本当に魅力的でした。エマ・ストーンに関しては「女王陛下のお気に入り」からランティモス監督とタッグを組み、ラブコメ女優から一皮二皮剥けました。女優として解放され、唯一無二の領域に到達したような強さを感じます。

また、ジェシー・プレモンス、マーガレット・クアリーもランティモス監督の世界をフィーリングで掴み、独特な掛け合いや面持ちをスクリーンの中で発揮されていました。そして、大御所ウィレム・デフォーも常に新しい人間としてイカれてる姿をランティモス作品で魅せてくれています。
俳優陣たちの演技も、観ていて本当に面白い。

また、オープニングからユーリズミックスの『Sweet Dreams(Are made of this)』
が流れます。

「Sweet dreams are made of this
Who am I to disagree?
I travel the world and the seven seas
Everybody's looking for something
-----
甘美で夢のようなことはこれから始まる
私が何者であろうと異議を唱える権利はない
世界を旅し、七つの海を渡る
誰もが何かを探し求めている」


この歌詞に準ずるように、この映画の登場人物たちは各々が何かを探し求め、様々な事を起こしていく。一言で言えば、この作品はまさに"甘美な悪夢"とも言えるでしょう。


今作はランティモス監督の作品に共通する「主従関係」が特にフィーチャーされており、私たち人間の滑稽で愛おしい姿を客観視できます。凄まじい皮肉と愛に溢れた映画でした。

ああ、次回作が今から楽しみです。ではでは。

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