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"若さ"故の絶望「ナミビアの砂漠」感想・レビュー

大学在学中に製作したデビュー作「あみこ」で注目を浴びた山中瑤子監督最新作「ナミビアの砂漠

ゆとり世代やら、Z世代やら、悟り世代やら…
いつの時代も若者はあーだこーだ言われる存在です。

私の身の回りでも、人生の先輩方は口を揃えて「今の若者は受け身だ」「覇気がない」と愚痴をこぼします。

では、その受け身で覇気がない若者たちに一体何が起きているのか。何が若者たちの生気を奪うのか。

解像度高く"若者"が感じている絶望を映像化し、現代の日本を紐解きながら皮肉る、サイコーに刺激的な映画でしたので、感想・レビューを記していきたいと思います。

STORY

2020年代。21歳のカナ(河合優実)は趣味も夢も特になく、都内の脱毛サロンで働きながら、優しいだけで刺激のない彼氏となんとなく付き合って暮らしている。
ホストクラブで遊んだり、クリエイターの男と浮気したりして、酒に浸りながらどこか現実に目を背けるような日々を過ごす彼女。

とあるきっかけを理由にカナは彼氏と別れ、浮気相手のハヤシ(金子大地)に乗り換えそのまま同棲を始める。
楽しい生活の始まりに思えたが、徐々にカナの中で感情のコントロールが効かなくなり、彼女の生活が壊れてゆく……


物語だけ見ると、ただのイカれた女の子の映画じゃん!って見られてしまいますが、違う違う、そうじゃ、そうじゃない。

カナを通して現代への絶望と僅かなる希望が描かれた大スケールなテーマの作品だと感じたので、その理由を3つの"カナ"に分けて説明します。

①薄情で自己中心的なカナ

主人公であるカナは、映画冒頭からいけすかない女の子として描かれています。

町田駅の連絡通路を気怠げに歩き、喫煙所でタバコを吸い、歩き方にはどこか軸がなくゆらゆら、ふらふら。
女友達とカフェで会った際、同級生が自殺した話を聞いても悲しみもしないし、その同級生すら思い出せていない様子。終いには、友達が泣きながら話していても、違うテーブルの男たちが話す下ネタが耳に入ってしまう。

流れで行ったホストクラブでは、友達を置いて浮気相手の男と待ち合わせをし、夜中まで遊んだり。へべれけで帰宅した家には優しく介抱してくれる彼氏がいたりと、好き勝手にやりたい放題。

カナの行動を観ていると
「なんてだらしない女の子なんだ…」と、あまり良い気はしません。しかし、不思議と、その猫のような自由さや、気の向くままに目先の刺激や快楽に赴く人間らしさが妙に魅力的に映るのです。

②社会性を保とうとするカナ

自己中心的に周りを気にせず、自由に生きているよう見えるカナですが、場面の所々で自身の社会性を保とうとする言動が目立ちます。

元・浮気相手であり、現・彼氏に昇格したハヤシの家族が催すキャンプに招待されたカナ。準備をする際の会話で、手土産を準備していないことに焦る場面があります。
ハヤシは必要ないから早く行こうと急かしますが、カナは「非常識な人間だと思われたくない」と言葉をこぼします。

観てる側からすると、「え?前半、散々血の通う人間の所業とは思えないほど、とんでもないことしているのに?友達使って浮気相手に会いに行ったり、彼氏との家の冷蔵庫勝手に持ちだしたりしたのに?」と思わずツッコミたくなる発言。

①でも記したように、映画の前半では掴みどころがなく自由な存在のように思えるカナが何故、そのような発言をするのかと疑問に思うでしょう。
そこでカナをよく観察してみると、彼女は何にも興味を示していないことに気づきます。

ただ、流れる川に身を任せるように日々を過ごしている……というよりかは、わざと様々な情報や感情を遮断し無視している方が正しいでしょうか。

私たちにはカナが何も考えていない愚かな女の子のように見えますが、その逆なのです。
カナには様々な情報に耳を傾ける敏感さがあるし、その情報が自分に与える影響を考えられる頭の回転の速さも持ち合わせている。

だからこそ、自分が人前でどんな行動をしたら社会から外れてしまうのかも安易に考えられますし、自分がすべき行動というものもよく理解しています。

しかし、彼女はそんな上辺で自分を偽る行為に強い嫌悪感を抱いており、それが顕著に出ているのがキャンプ場での場面になります。

ハヤシの大学時代の先輩であるカナコと挨拶する際に、不自然に深いお辞儀をしながら、目一杯の作り笑顔で挨拶をします。
ハヤシの先輩・カナコは「同じカナちゃんだね〜」なんてフレンドリーにふざけてるけど、当のカナは引きつった笑いで今にもその場を去りたそうな態度を見せるのです。

あ〜急に出てきた可愛らしい女の子、元カノだかなんだか知らないけど気に食わないし、てか仲良くする気ないし。その場だけでもヨロシクごっこしなきゃいけないのダルい、別に仲良くする気ないし。
……ってところでしょうか。

上記は、私の勝手な憶測でもありますが。(笑)
それでも一応、カナは悪態つくことなく、完全アウェーなキャンプをやり過ごします。

その他にも、職場の美容脱毛サロンで心が全くこもっていない、いい加減な棒読みでも、客の身体に塗るジェルの美容効果をちゃんと説明したり。

カナなりに、自身の社会性を保つ為に意識した行動が見られるのです。

③コントロールが効かなくなってしまうカナ

この社会で生きていくため、自身の社会性を最低限保とうと我慢してきたカナは次第に、感情のコントロールが効かなくなっていきます。

自宅にて、ハヤシが自分のことを放って作業に集中している時に、空腹感と構ってもらえない寂しさでわざと強く当たり、取っ組み合いの喧嘩に発展したり。職場で客に対して、「脱毛は無駄ですよ」発言をしてクビになったり。

今まで見ないように蓋をしていた感情が溢れ出し、何かとっかかりがあれば、烈火の如く噛みつくようになります。

そんな彼女が壊れてゆく過程に、カナの感情を揺さぶる小さな違和感が沢山ありました。

・カフェで女性軽視した下ネタではしゃぐ男たち
・同級生の死に対して悲しんでいたのに、何事もなかったかのようにホストで楽しむ友人
・風俗に行った元カレが弁解として風俗嬢を軽蔑する発言をしたこと
・真実を言わずに商売を行う職場の人間
・ハヤシが隠していた過去

これら全ては、カナにとって「不誠実」なものであり、彼女は人と関わるほどに社会へ絶望を募らせていったのでしょう。

大部分で言えば、男性への不満や怒りというものがカナの中で爆発したようにも思えます。

彼女が通うメンタルクリニックの医師がカナへ伝えた「父親との関係性が気になります」というセリフ。
恐らく、家族や自分への接し方で、何かしらのネガティブな感情を父親(男性)に抱いており、その植え付けられた不信感でより、男性の不適切な言動に対して過敏に反応してしまう体質になったのではないでしょうか。

だからこそ、女性を卑下する発言をした客引きの男に負けじと暴言で返すし、元カレに別れも告げずしれっと家の冷蔵庫持っていくし、体格的に敵わない男性のハヤシに対して、取っ組み合いの喧嘩を吹っかけていく。これらは全て、カナなりの男性との戦い方なのです。

今でこそ「女性活躍」だとか、「ダイバーシティ推進」だとか、女性を支援する運動がポピュラーになりつつありますが、そもそもなんで私らがしれっと下の立場にいることになってんねん、と。(捻くれ)

しかし、世間ではまだ「女性管理職」等、女性が地位を得ることに対して、珍しいと強調する言い方が蔓延っていますし。女性が感じる生きづらさや不平等さをぶった斬る覚悟で、カナは挑発する男たちへ立ち向かっているのだと感じました。

また、劇中ではカナが元カレとの間に出来た子どもを中絶していたり、ハヤシも過去の彼女との間に出来た子どものエコー写真をいまだに持っていたり……子どもを持たない選択をしたそれぞれの姿が描かれています。
明確な経緯こそ明らかになっていませんが、恐らくカナもハヤシも、相手と子どもを育てるビジョンが見えなかったのでしょう。しかし、女性と男性で圧倒的に違うのは、妊娠に伴う負担の大きさ。
生物学上、どうしても身体的な負担が多いのは女性なわけで。セックスに伴う女性のリスク(心身・金銭)に対し、逃げることも"選択できる"男性の優位さにカナは怒りを抱えているのではないだろうか。

それに加え、今は親の金銭的な援助等がなければ出産どころか結婚式を挙げることさえ難しい不景気な世の中で、どうやって結婚に希望を持てばいいのか。結婚や子どもを産むことが全てではないにしろ、選択することさえも出来ない社会は、未来を背負うカナのような若者にとって、あまりにも厳しすぎないだろうか。

そんな中でカナは自分を嫌いながらも、人間の性である「自分が一番大事」な精神を持ち、世紀末のような現代で生きようとしている。
全てに絶望しているカナから「死」の匂いを感じないのは、タイトルにもなっている「ナミビアの砂漠」のライブ映像が大きく関係していると感じます。

何もない、太陽で乾き切った砂漠の中、空を吸ったような青い泉。飲み水を求めて、さまざまな動物たちが泉に集まってくる。

人も動物も、水がなければ生存することは難しい。
人に関しては、水を飲まなければ4.5日程度で生きることが難しくなります。

今いる社会には何もない、何もないけど、生きるしかない。
生きるため、カナが細い腕で2Lペットボトルの水をラッパ飲みするシーンは力強い生存の意思を感じるのです。

まとめ

3つのカナの姿を通して、今作を観て感じたことを自分なりに書き記してみました。今年観た映画の中でも群を抜いて尖ってたサイコーの作品でした。

この映画で印象的だったのは、女性のありのままが映されていたこと。

寝起きのカナが、ブラジャーをせず大きめのTシャツを着て2Lの水をラッパ飲みしたり、冷蔵庫からおもむろにアイスを取り出して食べたり。
家にいる時はちゃんとしたブラなんてしないし、寝起きにご飯なんて作れないからすぐ食べられるアイスクリームで済ませちゃう。
自然体かつリアルな女性の生態がよく再現されているというか、これの逆を行く丁寧な生活をしている女性は社会(男性)が産んだ幻想なのだと。なんだか遠回しに諭しているような場面でした。


"多様性"の時代だと言われている今、「どんな個性をも認め合おう!」認識はどこか「誰が何してても放っておこう!」という認識へ変わりつつあるのではないかと感じています。
カナの職場である美容脱毛サロンも、客が無駄金を払ってほぼ効果のない不毛な選択をしていても、真実は伏せておきます。商売ですから、その人のためになることは言いません。という"自己責任"が蔓すぎてしまったのではないかと。

そんな冷たい世の中で、カナは若者として違和感を察知し、正しく生きたいと葛藤しています。

ナミビアの砂漠に湧き出ている泉は、命を繋ぐものであり、私たちの心を潤すオアシスとも言えるでしょう。カナが砂漠の泉を見つめていた真意は定かではありませんが、砂漠のように乾き切った心に泉(=希望)が湧き上がることを渇望していたのかもしれません。

それは理想の自分になれる、未来への僅かな期待なのかなと。(唐田えりかさん演じる隣人のお姉さんが妙に余裕を持って優雅に描かれているのも、カナがどこか余裕を持った大人になりたい憧れの気持ちが表されているようだった)


カナのような正常な感覚を持つ若者が壊れてしまうような世界。
しかし、その世界を生きる私たちが、お互いに水を与え合うことはできるのではないでしょうか。

これを観て救われる若者は多いだろうと感じたとともに、社会を廻している大人たちへ警鐘を鳴らすセンセーショナルな作品でした。

書きたいことが多く、長くなってしまいましたが。
またここでお会いしましょう。




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