短編小説「果てしない冒険」
ちらちらと雪が降り始めたころ、リリー・ロッツォの住む家では、彼女の祖母が病に伏せていた。
「どうにかしてお薬を買わなくちゃいけないのに、今日を生きていくだけでやっとだなんてあんまりだわ」
リリーは祖母と二人で暮らしていた。祖母は得意の編み物をし、リリーは毎日市場へ行き祖母の編んだ編み物のいくつかと果物を売って、なんとかその日を食いつなげるかどうかという貧しさ。リリーが裏庭で栽培する果物はとても甘くて美味しいものだったが、身なりも整えられない彼女の風貌が邪魔をして、市場では誰も彼女に目もくれない。リリーの顔は薄汚れ、髪は風に吹かれて乱れ、着ている服も色あせていた。それでも、彼女の瞳はどこまでも澄み、周囲の冷たい言葉や視線に屈することはなかった。誰もが軽蔑の目を向ける中、リリーは必死で果物を売り、たとえわずかでもお金を得ようとした。しかし、毎日硬いパン一切れと、キャベツを薄めたスープを一杯。こんな粗末な食事でも平気だった祖母も、今年のこの寒さには耐えきれなかったようだ。
「ほら、おばあさま。スープだけでも召し上がって。まだ私の分もあるのだから」
しかし、すっかり元気を失った祖母には、スープを飲む気力もなく、ただ寂しい天井を眺めるばかり。リリーは、こうして祖母の病を見守るしかなかった。自分の手のひらにできる限りの力を込めても、足りないものが多すぎることを痛感していた。
ある朝リリーがいつものように裏庭で果物の世話をしていると、突然強い眠気に襲われ、その場に膝から崩れるようにして倒れてしまった。腕にかけられていた籠がどさりと落ち、ころころと真っ赤なりんごが転がりでた。毎日懸命に看病をしながら、睡眠時間を削って働いていたのだ。
裏庭にはボウボウと雑草が生え乱れ、リリーは草の布団に包まれるようにして、どっぷりと眠りに浸ってしまった。市場に行く時間になっても、はたまた祖母のご飯の時間が来ても、彼女は一向に目を覚ます気配はなく、ただひたすらに昏々と眠り続けた。市場に彼女の顔がなくても誰一人として気づかなかったというのに、彼女が目を覚まし、ふたたび市場へ行くようになると、その変貌ぶりに皆が足を止め何事かと彼女の周りを取り囲むようになった。
というのもこの一件ののち、ロッツォ家にはどういうわけかありあまるほどの素晴らしい作物や、これまで身に着けたこともないような、美しい衣服の数々が家の前に用意されることになったのだ。
「さあ、おばあさま、今度こそ食べてちょうだい。これは間違いなく身体に効くものですよ」
そう言ってリリーが食べさせた料理は、どれも本当に効き目がよく、次の冬が来る頃には祖母はすっかり元気を取り戻した。祖母が動けるようになってからというもの、二人は届けられた衣服で身なりを整え、より良い食事を摂り、リリーの肌は若者らしく血の気のあるみずみずしさを取り戻し、祖母は足取りも軽く、白髪も減り、若返ったように見えた。
ところでそろそろみなさんも、リリーが昏々と眠っていた間に何が起こったのかと気になり始めたことだろう。もちろん祖母もそうだった。
「リリー、これはいったい何事なの?誰からの贈り物かしら」眠りから覚めた孫に、彼女はベッドに横たわりながら尋ねた。この質問にリリーは嬉々として答えた。「とっても素晴らしい冒険だったのよ」
そのときの二人の会話をすっかり書いてしまってもよいのだが、それではなんだかわけがわからなくなるし、祖母がリリーの話の途中で何度も聞き直したり、質問をしたりするものだから、ずいぶんと長い会話になってしまった。ここでは祖母が知ったすべての出来事を、リリーの身に起きた素晴らしく不思議な物語の全貌を、しっかりとまとめてみることとしよう。
穴に転げ落ちて時計を抱えたウサギや帽子屋に出会った、かの有名な少女のように、リリーも眠りの世界でそれはそれは大変な、そして一生涯忘れることのない美しい冒険に出ていた。
ひんやりと体が冷たくなっていくのを感じ、小さく身震いしたかと思うと、そのままリリーは目を覚ました(もちろん夢の中でである)。まだしょぼしょぼとする目を開き、真っ先に飛び込んできた情景からするに、ここは明らかに森の中だった。
「こんな場所、夢でも見たことないわ」リリーはゆっくりと起き上がると、静かに辺りを見渡した。体に冷たさが回ったように感じたのは植物たちの露によるもので、リリーはかなり湿気た草の上で眠っていたらしい。彼女の貧しいエプロンとワンピースは土まみれ、泥まみれになり、ますますみすぼらしい格好になってしまった。いつも履いているはずの灰色の靴は見当たらず、どういうわけか、彼女は裸足だった。
しかしリリーにはそんなことはどうでもよかった。いや、リリーでなくとも誰もがそう思うだろう。そのくらい本当に不思議な場所だったのだ。右も左も上も下も草木に囲まれた森の中には、あちらこちらに目をくらますほどの極彩色をした木や花があった。多くの木には、毒キノコのような荒々しい姿をした何かの実のようなものがぶら下がっていた。普段であれば賢いリリーは決してこんなことはしなかったであろう。けれど、ここは眠りの世界。彼女はすっと立ち上がると静かにその実に近づき、そっと手を伸ばし、そしてもぎ取った。そう、リリーはお腹が空いていたのだ。見知らぬ土地で、ましてや極彩色をしたキノコを食べようだなんて、とんだお馬鹿さんのやること。それでもいざ食べてみると、キノコのようなその実は、頬がとろけ落ちるほど美味しく、溢れ出る汁は口いっぱいに広がり、あっという間に彼女の体中が、その甘みに包まれたようだった。
「なんて素敵な食べ物なのかしら!」
リリーは、日頃の質素な食事からは考えられないほどの美味しさを味わっていた。その実は彼女の手でも簡単に割ることができたし、片手に収まるほどの大きさで、大変食べやすかった。しかしいくつかの実を食べ終える頃、空腹が満たされた彼女は、途端にいつもの賢いリリーに戻った。
「誰のものかもわからないのにこんなに食べてしまうなんて、大変な失礼をしてしまったわ」けれど食べてしまったものはもうどうすることもできなかったので、彼女はそれ以上に大事なことをしようと頭を働かせた。
「ひとまず、ここがどこなのかを知る必要があるわね。こんな森の中に誰かいればいいのだけれど」
もちろんリリーはコンパスなんて持ち合わせていなかったし、空を見上げても太陽の眩しさに目を痛めるばかりで、星なんて一つも出ていない。時計も持っていなかったが、おそらくいまは一日の中で一番暑い時間に差し掛かっているだろう。額を濡らす汗を拭いながらどちらへ進もうかと考えあぐねていると、ほんの少し離れたところからちらちらと水の流れる音が聞こえてきた。
「きっと川があるのね」そう呟くと、彼女は音のする方へ向かって歩き始めた。
もし本当に川があるのだとすれば、それは大きな助けになるかもしれない。誰かが水を汲みにやって来ているかもしれないし、少なくとも川を下流の方へ辿っていけば、いずれは必ず海に出ることをリリーは知っていたのだ。そこまでいけば船なんかもあるかもしれない。漁師がいれば、この場所がどこかを尋ねることもできるだろう。しかしそれよりもなにより、彼女は喉が渇いて仕方がなかったのだ。あまりに渇きすぎて、首を左右に倒したら、食道がパキッと音を立てて折れてしまいそうなほどだった。川まで行って何も手がかりがなかったとしても、いまは喉を潤すのが先だった。
ぬかるんだ森の中は本当に歩きにくい。一歩、また一歩と歩みを進めるごとに、その足にはねっとりと茶色い泥がまとわりついた。彼女の足先はあっという間に肌が見えなくなってしまった。その泥は、足跡が残るほどの粘り気があり、リリーの足をしっかりと押さえつけるものだから、早くと願う心とは裏腹に、リリーは亀のような重い足取りで歩くしかなかった。そのうえ川へ辿り着くために頼りになるのは、その音を聞き分ける自分の耳だけ。歩けば足元の泥がバシャ、バシャ、と音を立ててしまうので、十歩進んでは立ち止まり、また十歩進んでは立ち止まりして、川の音をのする方角を確かめなければならなかった。リリーは何度も足を滑らせ、手をつき、尻もちをつき、時折立ち止まったりしながら、川を目指して歩き続けた。太陽が一番高いところからリリーを照らしつけ、そろそろ暑さも限界というところにきて、彼女の足取りは急に軽くなった。川が見えたのだ。
「ああ、やっとだわ」
リリーは川へ駆け寄ると、一心不乱に水を飲んだ。何度も何度も手ですくっては口に運んだ。その水はきんと冷えていて、暑さを耐えてきた体の隅々まで染み渡るようだった。しばらくして喉が潤ってくると、今度は腕や足を川に入れ始めた。ここまでの道のりと暑さのせいで、彼女の体は汗と土まみれだったのだ。ぴしゃぴしゃと水をかけ、それらがすっかり綺麗に洗えると、今度こそリリーは下流の方へ向かって川沿いを歩き始めた。
初めて目にする不思議な植物の中を裸足で歩き回ることは、本当に気持ちが良かった。周囲から漂う、甘くて朗らかな花の香りが、より一層彼女の心を踊らせた。強い日差しは変わらなかったものの、時折穏やかな風が木々の間を吹き抜けていき、それは、さらさら、さらさら、と彼女の頬を優しく撫でていった。
「おばあさまもきっとここを気に入るわ」しばらく歩いていると、リリーの頭の中は硬いベッドで横たわるおばあさまのことでいっぱいになった。今頃どうしているだろう、お部屋は寒くないかしら、今日はスープを飲んでくれるかしら、もし少しでも元気そうなら私の分まであげましょう……ところで、どうして私はこんな場所に一人でいるのかしら?リリーは一気に恐怖に襲われ、ふたたび小さく身震いした。ここへ来るまであまりの景色の素晴らしさと空腹や喉の渇きで、そんなことにはすっかり気づかずにいたのだ。しかしここを出るには怯えているわけにはいかない、歩き続けなければならない。リリーの気持ちはどんよりと重たかったが、早くこの森から離れたい一心で足取りはさらに軽くなった。
そうしてしばらく歩き続けていると、川が二手に分かれている道へ出た。右手の方がやや川幅が広く緩やかで、左手の方は川幅に合わせて道もぐんと狭くなっているようだった。どちらに進むべきかしらと考えていると左手の狭い道の方から、パタ、パタ、とこちらに近づいてくる足音が聞こえてきた。やがて木々の間から姿を現したのは、まったくの不思議な生き物だった。
その生き物は、リリーよりはるかに大きな体だった。それはどうしてパタ、パタ、などと軽い足音で歩けるのかと疑問に思うほど。体中は、頭の先から足の先まで白濁色をした柔らかそうな長い毛で覆われており、四つん這いで歩く姿は、まるでオオカミやライオンにそっくりだ。しかし、それらの動物ほど賢い顔立ちではなく、どちらかというとのっぺりとしていて、目は小さく、鼻の穴がやけに大きかった。顔中にも長い毛が生えており、もはやそれが髭なのか体毛なのか、区別はつけられない。それらしい形のものはちょこんと見えていたが、あまりにも毛が長すぎて、耳は機能していないように見えた。次第に近づいてくるその生き物がオオカミでもライオンでもないとはっきり気がついたのは、次の瞬間だった。
謎の生き物がリリーに気がついた。一瞬立ち止まったかと思うと、いっぺんに色々なことが起こった。まず第一に、リリーは逃げ出したいのに足がすくんでその場からまったく動けなくなってしまった。そしてその目が捉える先では謎の生き物がぐいっと体を持ち上げ、前足を上へ上へと伸ばし始めた。体が裂けるように、皮膚が伸び縮みし、気づけばそこには毛の長い巨人が立っていた。身長はリリーの十倍近くはあるだろう。と思ったのと同時に、その巨人はリリーへ手を伸ばし、簡単に彼女を摘み上げてしまった!そのままのし、のし、と歩き始め、リリーは巨人の手に摘まれたまま、手足をぶらんぶらんと揺さぶられることになってしまったのだ。
「降ろして!降ろしてちょうだい!」
リリーがいくら騒ごうが喚こうが、一向に巨人は彼女を離してはくれなかった。それもそのはず、彼が一歩、また一歩と足を踏み出すごとに森全体の木々がミシミシと軋み、森中にはゴォーッと大きな風が吹き抜けたのだ。ただでさえ長い毛で耳を塞がれているというのに、これではまるでなにも聞こえないだろう。
次に目を覚ましたとき、リリーは暗闇の中にいた(これが夢の中で眠ってしまっていたからなのか、眠りの世界にだけ起こりうる不思議な時空操作によるものかは、誰にもわからない)。ここがどこなのかを考えるよりも先に、耐え難い異臭が彼女の鼻を突いた。卵が腐ったような、それとも堆肥になりきれていない糞尿のような、それらを混ぜ合わせたような、そんな嗅いだこともない、嗅ぎたくもない匂いだった。咄嗟に鼻を抑えたリリーだったが、それでも一歩遅く、彼女はその場にひとつ嘔吐をした。それほどの異臭だったのだ。
すっかり吐いてしまうと、異臭による頭痛は残っていたがそれでも頭を働かせるくらいの余裕は出てきた。だんだんと暗闇に目も慣れてくると、彼女のすぐ近くに壁が見えた。壁はなんともヌルヌルしていたが、壁伝いに歩いていくとこの部屋がいかに小さく、円形をしていることがわかった。そのまま静かに足を進めると、円形の先にわずかに光が漏れ出ているのが目に留まった。リリーがすぐ近くまで行くと、外からなにやら話し声が聞こえてきた。
「どぉコォでぇぇえ、つかまえてぇきたのかァ?」
「ニンゲンはぁ、キケン、キケンー!」
その声はあまりに低く、地面を揺るがすようであった。そのうえたいそう滑舌も悪かったが、リリーの耳にはこう聞こえていた。そして間違いなくその声の主は巨人であった。それも一人や二人ではない。少なくとも数十人はいるだろう。その会話を聞きながら、リリーは次第に状況を理解し始めた。なんと、彼女は巨人の棲家に連れてこられてしまったのだ。
「アレはぁ、まだコドモぉだったぁぁぁ」また新しい声がそう言った。
「コドモ、オトナ、かんけいィィないー、キケン、キケンー!」
「スグにヤキコロスがいちばんー!」
リリーはただ黙って会話を聞き続けた。気づけば息も殺していた。音を立ててはいけないと思ったからではない、あまりにもひどい状況に動けなくなってしまったのだ。この壁の向こうでは、今まさに自分の行く末が話されている。恐怖だけではない、聞かざるをないこの状況が、リリーをそうさせていた。
「そこでなにをしている?」
突然、背後から声がした。その声は壁の向こうの巨人たちの声とはまるっきり違い、低く野太くはあったが、凛々しく、澄んだ声であった。
「ごめんなさい、その、盗み聞きをしようと思ったわけじゃないの。ただ……」
話しながら声のする方を見ると、そこにはあの四つん這いの生き物がこちらをじっと見据えていた。
「ただ、なんだ?」
相変わらず、パタ、パタ、と静かな足音で、その生き物はリリーの方へじりじりと近づいてきた。後退りしようにも、リリーの後ろにはすでに壁が迫っていた。
「ただ、あの、私の話をしているみたいだったから……ここへ連れてきたのはあなたでしょう?あの、もとの森へ帰してくれないかしら?このままじゃ私、焼き殺されてしまうわ!」
「それはできない」四つん這いの生き物は答えた。あまりに低い声で、もはや唸り声のように聞こえた。
「どうして……?」
リリーが尋ねると同時に、その生き物は姿を消してしまった。どこへ行ったのかと暗闇の中で目を凝らしていると、壁の外から新しい声が聞こえてきた。
「そこまでだ。すべて客人に聞こえているぞ」
どういうわけか、四つん這いの生き物は壁の外へ出ていたようだった。リリーはどこかに扉があるのではないかと壁のあちらこちらを探したが、どうしても見つけることはできなかった。仕方なくふたたび漏れ出る光の隙間から声を聞くことにした。
「バンプー・ダンダンさまぁぁぁぁ!」その場にいたすべての巨人が一斉に声を上げた。どしん、どしんと足を踏み鳴らす者もおり、リリーのいる部屋までもが地震のようにガタガタと揺れた。バンプー・ダンダンと呼ばれた四つん這いの生き物は、この巨人たちの長であるようだった。彼が前足を掲げると、次第に巨人たちは静かになった。
「あの子どもは生かしておかなければならない」
「ああ、よかった!」リリーが胸を撫で下ろすと同時に、巨人たちはどうしてだ、あり得ない、早く殺せ、などここではとても書けないような言葉を次々に叫んだ。
「アレはぁぁ、ニンゲンだォォォ!」
「とうとうバンプー・ダンダンさまもぉ、あたまがァ、イカれちまったぁぁ!」「オイィぃ!おさのワルグチぃぃだけはぁぁ、ユルさんんんー!」
巨人たちが暴れ回るものだから、バンプー・ダンダンはふたたび前足を掲げて、彼らを鎮めさせなければならなかった。彼の前足には魔法があるのか、サッと掲げるだけで荒れ狂う巨人たちもあっという間に静かになった。
「これは決定事項だ。あの子どもに手を出したらどうなるかわかっているな」そしてバンプー・ダンダンはまたもや姿を消した。
それからというもの、巨人たちはバンプー・ダンダンの命令があったとはいえ、決してリリーに手を出そうとする者はおらず、相変わらず壁一枚を境にそれぞれの生活を送っていた。「コォれはぁあ、ヒノトォおおったニくだあ」と言いながら、きちんと人間のための食べ物が与えられたし、異臭がひどいと伝えれば消臭効果のある植物を持ってきて部屋中に敷き詰めてくれた。食事はべっとりとした肉ばかりであまり上品な味とは言えなかったが、いつものキャベツを薄めただけのスープと比べれば、あまり気にならなかった。とはいえやっぱりこんな場所にいるくらいなら早く外へ出たかったし、襲われるでもなく、ただ閉じ込められているだけというのは、リリーにとって、なんともむず痒い、落ち着かない時間であった。バンプー・ダンダンはというと、リリーの気づく限りでは、あれ以来一度もこの場所へは来ていないようだった(巨人たちはあまり容姿に違いがなかったので、彼が四つん這いの姿に変身していなければ、他の巨人たちとあまり見分けがつかなかったのだ)。それでも、こうして少しずつ時間が過ぎていくと、リリーは、巨人たちはたんに体が大きいだけで、野蛮でも危険でもないのかもしれないと思うようになっていた。
ちなみにここまでの間に、リリーが一度も祖母のことを考えなかったのかというと、決してそんなことはない。川辺で思い返してからというもの、祖母のことが頭から離れたことは一度もない。毎日のご飯も食べさせてあげられず、様子を見に行くこともできない。この巨人の巣の中に閉じ込められている間に、おばあさまの身に何かあったらどうしよう……考えることは目まぐるしくあった。しかしそこは我々が騒ぎ立てるようなことではない。賢いリリーは、いま目の前で起きている問題を解決しないことには祖母のもとへ帰ることはできないのだとわかっていたのだから。
ある晩、リリーがひとり暗闇の中で眠りにつこうとしていると、壁の向こうから涙する巨人の声が聞こえてきた。ゆっくりと小さな穴から覗き見ると、その巨人は、壁の向こうで一人で泣いていた。
「どうしたの?」恐る恐るリリーは尋ねた。この頃には壁伝いに巨人と話しをする時間も増えていた。しかしこのときばかりはリリーもどうすることもできず、ただ茫然とするしかなくなってしまった。なにしろ、巨人はますます声を大きくし始めたかと思うと、リリーの身長ほどもある大きな両手の中に顔をうずめておいおいと泣き出してしまったのだから。「ああ、もうどうしてそんなに泣いているの?」リリーは困りきって呟いた。けれどその間も巨人は、子どものようにわんわんと泣くものだから、巨人のまわりはあっという間に水びたしになってしまった。
「またぁああああ、コロされたぁぁぁあああ!」
そう言って巨人は立ち上がり、少し場所を移動した。というのも、リリーが覗ける壁の穴を彼が塞いでしまっていたのだ。壁の向こうの様子が見えるようになった途端、リリーはハッと息を呑んだ。部屋の中央に石でできた大きな一枚板のような机があり、そこには一人の巨人の亡骸が横たわっていたのだ。体中を太い紐で縛り付けられ、胸や腹には弓矢が刺さったままだった。あの白濁色の長い毛は、薄汚れて、ところどころに血の色が混じっていた。巨人が泣きながら一本一本紐を解いていくと、皮膚は捲れ、くっきりと縛り上げられた跡が残り、それはあまりに痛々しい姿であった。リリーは声も出せないまま、立ち尽くすほかなかった。最後の一本の弓矢を引き抜くとき、あまりに深く刺さっていたのか、矢を引っ張ると、亡き巨人の皮膚の肉まで抉るように持ち上がり、リリーは最後の抜き取る瞬間を見られなかった。あまりに残酷で、とても見るにしのびなく、咄嗟に目を覆ってしまったのだ。
「ニンゲン、にっくきニンゲンダァぁぁ……アイツらはぁ、かならずきょじん、コロスぅぅううう!」
亡骸の前で泣き崩れる巨人に対し、リリーはかける言葉も見つからなかった。このとき初めて、巨人たちがリリーを殺したがっていた理由を知った。
この森には人間の手によって、あらゆる場所に巨人を仕留めるための罠が敷かれていた。それは本当にとてもよくできた罠で、一度でも罠に掛かってしまうと、そこからはあっという間だった。指一本でも罠に触れると人間たちのもとへ知らせがいくようになっており、巨人が罠に掛かる頃には人間たちによる一斉攻撃が始まるのだ。そしてこの亡骸のように、体中に矢を射られ、それは彼らが命を落とすまで続けられた。
「ごめんなさい」この話を聞いたリリーの口から真っ先に出てきたのは、この言葉だった。
「そんなひどいことをしていただなんて、私知らなかったものだから。人間のほうがよっぽど野蛮で残酷だわ」
「きょじん、ニンゲンをぉおお、コロしたこといちどもないィィィィ。キケンーはきょじんジャない、ニンゲン!」
「ええ、そうね。本当にその通りだわ」リリーはすっかり巨人のために心を痛めていた。ただ体が大きいというだけで、人間たちは彼らを野蛮で危険な種族と決めつけ、殺しの対象としていたのだ。その晩、リリーはどうにも眠りにつけなかった。悔しいやら、悲しいやら、けれどやっぱり彼らの見た目は恐ろしいものだと認識してしまい、自分も同じ人間なんだと思い知らされ、どうにも扱いきれない感情に襲われてしまった。
あくる朝、巨人たちの手によって昨晩運ばれた亡骸の埋葬が行われた(巨人族も人間のように土を掘って地中に埋めるのだと知り、リリーはなんとも不思議な気持ちになったものだ)。リリーも部屋の外に出してもらえるようになり、彼らの埋葬を見守っていた。
「これいじょうぅぅぅ、ガマン、できなぁイィぃぃ」突然、一人の巨人が声を荒げた。そしてリリーに向かって突進してきた!そして、一瞬のうちにいくつものことが起こった。巨人に襲われたリリーは簡単に押し倒され、目の前にはギラリと光る巨人の歯が迫っていた。首を食いちぎられると目を瞑った次の瞬間、今度は宙に放り出されていた。誰かが襲ってきた巨人から救ってくれたのだ。地面に打ちつけられたはずの手足は、どういうわけかまったく痛みを感じなかった。息を整えながら後ろを振り返ると、リリーを襲った巨人はそのほかの巨人たちによって、ひどく乱暴を受けていた。
「やめてちょうだい!」今度はリリーが声を張った。しかし荒ぶる巨人たちの中では、リリーの声などかき消されてしまう。それでも彼らの体毛を思いっきり引っ張ったり、体を揺するなどして、こちらに気づいてもらおうと必死になった。やがてそれは功をなし、巨人たちはリリーの声に耳を傾けてくれた。
「やめてちょうだい!彼は何も悪くないわ」未だ隙があれば襲おうと臨戦態勢を崩していない一人の巨人を、他の巨人たちが数人がかりで押さえつけていた。
「コイツはぁぁぁ、ニンゲン、おそったぁぁぁ!」
「バンプー・ダンダンさまノォ、いいつけ、ヤブったー!」
巨人たちは口々に叫び始めた。
「彼は、あなたたちを守ろうとしたのよ。私は人間であって、この巨人を殺した人たちと同じ種族だから。私だってあなたたちと同じ気持ちよ。何ひとつ悪いこともしていない人を殺してしまうだなんて、そんなこと絶対に許せない。だからこそ、彼が私を殺したいと願う気持ちも理解できるの」次第に巨人たちは静かになった。リリーは静かに臨戦態勢の巨人へと近づいていった。あたりはしんと静まり返っていた。リリーの足音だけが響き渡った。しかしその沈黙を破ったのは、昨晩、亡骸を運んできた巨人だった。
「このコドモぉぉぉ、きのう、ないたぁぁぁ。このシンダきょじんみテ、ないタァァァ。ごめんなさいいったぁぁぁ。だから、キケンちがう!」
突然ひょいと持ち上げられたリリーは、「うわあ!」と言いながら手足をバタつかせた。けれどこれまでにも巨人に摘み上げられていたので、彼らの手の中で態勢を整えるのも上手になってきた。
「リリィぃぃー、これからどうするかぁぁ?」摘み上げた巨人が尋ねた。
「人間族にも、かならず長がいるはずだわ。王かもしれないけれど。その人にあなたたち巨人は野蛮でもなければ、危険でもないのだと伝えるのよ」
巨人たちが拳を突き上げ、足を慣らし、一斉に声を上げた。リリーを持ち上げた巨人も同じように動き回ったものだから、彼女は地面に叩きつけられないようにするのに必死になった。その途中、少し離れたところに四つん這いの姿のバンプー・ダンダンを見つけたような気がした。
それからというもの、リリーはとても忙しくなった。まずは人間族がどこに住んでいて、どれだけの人数がいて、誰が治めているのかを知る必要があった。誰かを使いに出そうにも、この森にはあちらこちらに巨人獲りが仕掛けられており、彼らには危険が多すぎた。そのうえたいていの巨人がそうであるように、彼らもまた、あまり頭が良くなかった。近場でもいつも道に迷ってしまうし、巨人のうちダンダン族だけがそうなのか、何かが起こるたびに彼らは子どものように泣いて、あたりを水びたしにした。これではいつまで経っても見つけ出せないと思い、リリーは自ら人間族を探し出そうと巨人たちの棲家から発つことを決めた。巨人たちの用意してくれたいくつかの肉の破片を綺麗な草で包むと、それらをポケットにしまい込んだ。
「その足で行っては時間がかかり過ぎる」背後から澄んだ凛々しい声が聞こえてきた。
「バンプー・ダンダン!」彼は四つん這いの姿をして、ゆっくりと彼女に近づいてきた。
「私の背に乗りなさい。あっという間に人間族の城に辿り着けるだろう」
このとき初めてリリーは彼の柔らかな毛に触れることができた。白濁色の彼らの体毛は、風になびくたびにうっすらと煌めくほど滑らかだった。なかでもバンプー・ダンダンの体毛は一際美しかった。リリーは密かに、一度でいいからその毛に触れてみたいと思っていたのだ。
バンプー・ダンダンはリリーが背に乗ったのを確認すると、ぐいっと体を持ち上げ一つ伸びをすると、どんな馬よりも早く駆け出した。森中が彼のために道を開けているかのようだった。バンプー・ダンダンが近づくと鬱蒼と生い茂る木々たちがサッと道を作り出すのだ。後ろを振り返っても、もうその道はない。彼のための通り道だった。いつにも増して、この森が色彩豊かに見えた。バンプー・ダンダンは一度も足を止めることなく、走り続けた。どんどんと駆けてゆき、足を滑らせることもなく、岩も川も簡単に飛び越え、細い道ですらためらいもなく進んでいった。
この眠りの世界で起きたどんな出来事よりも、紛れもなくこの瞬間が一番素晴らしい時間だったとリリーは思った。バンプー・ダンダンが走れば走るほど、彼女の横には優しい風が吹き当たり、こんな気持ちの良い風なんてあったかしらと思うほどだった。彼はパタ、パタ、と静かな足音しか立てず、リリーの耳には森中の囁き声が聞こえてくるようだった。「バンプー・ダンダンが来るよ———あの女の子はだあれ?———これは見物だなあ!」
リリーは次第に心が温かくなるのを感じていた。それは感情の温かさなのか、それとも気温の暖かさなのか、このときの彼女にははっきりとはわからなかった。しかしそれは、自分と同じ人間族を相手に戦わなければならないのだと、自分がその橋渡しにならなければならないのだと、しっかりと自覚をさせ、勇気を与えた。
「リリー、じきに人間族の城が見えてくる。すべきことをすべき通りに行えば、それで良い」
「あなたも来てくれるわよね?」
「いや、私が姿を現せばこの地はたちまち大混乱に陥るだろう。リリー、人間族はそれほど巨人族を恐れているのだ」
そう言って彼がこれまでにない最大のジャンプを終えると、周囲の木々が消え、目の前には人間族の城が立ちはだかった。それはリリーが想像していたものより、もっとずっと、はるかに大きかった。
城は白く、異様なまでに美しかった。鋭く天に向かって突き立ち、まるで大地そのものから生まれ出たかのように厳然として聳え立っている。外壁に刻まれた無数の彫刻は、これまでの人間族の歩んできた古の歴史を語るかのようだった。城の入口には、何層にも重なる鉄の門があり、幾重にも警備が施されていた。重い鉄の扉は静かに閉ざされ、かすかな音で風がその隙間をすり抜ける。あたりは夕刻を迎えようとしていた。城の背後から覗き見る太陽の光がこちらに迫り来るにつれ、無数の尖塔を血の如く、赤く染めあげる。それは、もはや人間族と巨人族の争いは避けられないのだと告げているようだった。
リリーは息を呑んで、城の頂上を見上げた。どこまでも高く、どこまでも遠い場所にいるはずの長が、そこからこの町全体を見下ろしているのだろうか。彼の目が、リリーの心の奥底にまで届くような気がして、足元がふらつく。そんな不安を感じつつも、彼女は心を決め、バンプー・ダンダンの背から降りた。彼らの誤解を解くために、この城に来たのだ。ここで引き返すわけにはいかない。
リリーが門の前まで進むと、門番が声を荒げた。片手に長い槍を控えていた。鎧を着ていて顔は見えなかったが、その野太い声から男性だとわかった。
「誰だ?」
「巨人族の使いです。あなた方の長と話がしたい」震える体を抑え、リリーは声を絞り出した。
「長?そんなものはここにはいない。ここにいるのは、人間王・ダラマンだけだ」
彼がダラマンと言うと、近くに控えていた兵士たちが一斉に「国王陛下、万歳!」「ダラマン王、万歳!」と叫んだ。そして門番が槍を地面に二度ほど打ちつけると、ふたたび辺りは冷たい静寂に包まれた。
「ごめんなさい、そうね、そのダラマン王に話があるの」
「どんな?」門番が鋭い視線でリリーを睨みつけた(顔は覆われていたが、それでもリリーにはそう見えたのだ)。
「えっと、直接お話しさせてもらえないかしら」リリーは恐る恐る尋ねた。
「ダラマン王と話すことはできない。私が仲介することになっているのでね」
門番はすっと前を見据えていた。彼からは恐れというものを感じなかった。この場所で門番としての務めを果たすことに、このうえない誇りを持っているようだった。この門番を見ていると、あまりの堂々たる威厳に畏怖の念すら覚える。リリーは、すっと目を逸らし懸命に頭を働かせた。今や巨人族の行く末はリリーの手にかかっていると言っても過言ではないのだ。ここで恐れを成している暇はない。リリーはややしばらく考えたのち、「そう、わかったわ」と言って、これまでの事のいきさつをすべて話して聞かせた。彼女がこの地で目を覚ましてから、巨人たちと出会い、そこで何が起きたのかということを。そして彼らは決して野蛮な人種ではないということを。いずれはここにいる全員がすべてを知ることになるだろう。そして、それは何らかの争いを生むかもしれない。それならば、正しいことを伝えられるうちに自分の口から話しておくべきだと思ったのだ。たとえそれがダラマン王相手でなかったとしても。
リリーはふたたび門番に目を向けた。強い意志と勇気を持ったその視線は、まっすぐに門番を捉えた。静寂が続いた。とても長い時間に思えた。それは空気も凍りつくほどの冷たさだった。
「この女を捕えろ!」
鋭い声が空気の薄氷を破った。構えていた兵士が一斉に飛び出した。リリーの目の前で重い鉄の扉が開け放たれた。
「巨人族の味方をする、裏切り者を逃すな!」
鎧のぶつかり合う音が響き渡る。リリーは咄嗟に走り出した。気味の悪い金属音が、彼女の背後に迫る。リリーが持つのは、巨人たちが作ってくれた剣ひとつだけ。それでもここで捕まるわけにはいかないと、剣に手をかけ、鞘から抜き出そうとするよりも早く、その場に凄まじい砂埃が舞い上がった。前も後ろもわからないほどの砂埃に包まれ、気づけばリリーはバンプー・ダンダンの背に跨っていた。彼は来るときよりも早い、光のような速さで森を駆け抜けていった。リリーは彼の背から振り落とされないように、しがみつくのに必死だった。背後では門番が「捕えろ!」と叫んでいるのが聞こえていた。しかしそれも次第に森の静けさの中に飲み込まれていった。バンプー・ダンダンは、そのくらいとてつもない速さで巨人族の棲家へと帰ったのだった。
棲家では、いまかいまかと巨人たちが二人の帰りを待っていた。
「リリーぃがぁぁぁ、かえったああー!」一人がそう叫ぶと、彼らの重々しい足音が響き、同時に低い声が空気を震わせた。どうだったのか、何があったのかと尋ねる巨人たちを鎮め、リリーは一部始終を言って聞かせた。人間族の城の大きさから門番の恐ろしさ、自分が裏切り者だと捉えられそうになったこと。そして、遅くとも明日の朝には人間族がこの棲家へ武器を持ってやってくるだろうということを。
その言葉を聞いた巨人たちは、一斉に吠えた。「にんげん、にくいぃぃィー!」「ユルさん!ユルさん!」何度も何度も、怒りと戦意が入り混じった声が木々を揺らし、地面を震わせる。「ブキをぉぉぉ、つくれー!きょじんハァァ、つよいー!」この声は、彼らの心に火をつけた。巨人たちは力強く地面に拳を叩きつけ、戦いの準備を始めようと騒ぎ立てた。
「待って!それではダメなの。お願いだから、話を聞いてちょうだい!」リリーはありったけの声を響かせた。巨人たちは足をとめ、彼女に視線を向けた。リリーはゆっくりと言葉を紡いでいった。
「あなたたちは武器を持ってはいけないわ。それではあなたたち巨人族が野蛮で危険な存在だということを証明することになってしまう。人間族には、あなたたち巨人族が野蛮で危険な種族ではないと知ってもらわなければならないの。決して人間を傷つけたりしない、本当は優しくて平和な種族なんだって」その言葉に、巨人たちの間にしばしの沈黙が流れた。
「にっくきにんげん、スベテ、うばっていくぅぅぅ!」「マモルものがぁぁアぁぁルぅー!」
「だからこそ、戦わずして守るのよ」リリーの目は真剣だった。「武器を手に取らず、あなたたちが野蛮な存在ではないことを示すの。ただ、この土地と平和を守りたいだけだと、人間族に知ってもらわなければならないわ」
巨人たちはしばらく考え込んだように、低く、唸り続けた。その間もリリーは、彼らを優しく説得し続けた。
「明日、人間王・ダラマンとその兵士たちがやってきたとき、私はもう一度彼らに訴えるわ。その間、あなたたちはこの家を守り続けるの。武器は家の中に隠しておきましょう。そうして私たちには戦う意志がないことを示し続けましょう」
リリーの懸命な訴えにより、巨人たちはこの棲家の守りを固める用意を始めた。森中にある、枯れてしまった大木や石や岩などを運んできては、棲家の周りに積んでいった。巨人の多くは手先が器用ではないが、その中でも少し動きの機敏なものたちは、いざという時のために棲家の奥深くで静かに武器を作り蓄えた。それは夜になっても続いた。リリーは、彼らのために動き回った。あちらでは大木や岩がぶつかり合う音、こちらでは鋼の鎧が擦れ合う音、武器を鍛え直す音が、暗闇の中で光る。やがて夜が深まると、空に月が浮かび、星々が静かに輝き始めた。巨人たちは準備を終えた。いつの間にかバンプー・ダンダンは棲家を出て、夜闇へと消えていた。
その晩、リリーは一睡もできなかった。こんな戦いなんてもちろん初めてだったが、それが恐ろしかったのではない。彼女はこの何日間、何週間もの日を経て、十分に強い女性へと成長していた。それでも彼女は明日の朝が来ることが怖くてたまらなかった。門番にすべてを話したのは間違いだっただろうか、どこかにこんな争いを避ける道があったのではないかと、自分の選択によって巨人たちが戦わなければならなくなることが、たまらなく悔しく、そして恐ろしかったのだ。
彼女は一晩、巨人たちの棲家が見渡せる近くの丘の上で過ごした。雲ひとつなく、夜空は無情なほどに清らかで、ただひたすらに広がっていた。星々が静かに煌めき、風もなく、草葉さえも動かず、世界全体がひと息ついているかのようだった。月明かりの下で、リリーは静かに深呼吸をした。空気は冷たく、喉を通るたびにひんやりとした感覚が広がる。
静かな夜闇とともに、リリーは一夜を明かした。昨日駆け抜けた森の合間から、ゆっくりと朝日が昇るのが見える。まもなく戦いの火蓋が切られるだろう。夜明けの光が、夜の闇を引き裂いていくように、彼女の心の中でも闇が徐々に解けていくのを感じていた。朝が来るということは、戦いが始まるということ。しかしそれは、終わりではなく、新たな始まりの兆しでもあるのだ。ゆっくりと立ち上がると、リリーは丘を駆け下りていった。一筋の光が差し込み、彼女の鎧が静かに反射した。
日が昇ると同時に、人間族の軍勢が一斉に姿を現した。その数一千人にも及ぶだろうか。彼らが走り、駆け抜けるほどに、あたりには金属同士のぶつかる嫌な音が響き渡った。軍勢は次から次へと姿を現した。直進して来る者、北側の斜面から滑り降りるように下って来る者、そしてダラマン王を囲うように国王を守りながら来る者。巨人たちの棲家の数百メートル先は、すっかり鎧の軍勢によって一帯を覆われてしまった。
「ウゥゥゥー!にくい、にくい、ニンゲン!」
「おさえろォォ、いまはダメ、ぜったい!」
巨人たちはいまにも飛び出していきたい気持ちを抑えて、しっかりとリリーの言いつけを守っていた。決して姿を見せず、棲家の中で落ち着かない気持ちで待ち構えた。武器を持って飛び出すのは、それしか手段がないと判断されたとき。それまでは棲家の中で様子を伺い続けるのだ。
一斉に押しかけてきたものの辺りには巨人一人見当たらず、人間族の軍勢はダラマン王の合図で一行は一度足を止めることになった。ダラマンが一人、軍勢の中から前へ歩み出ると、こう叫んだ。
「私が人間王・ダラマンだ!」王の声が響き渡ると、後ろの軍勢たちが叫んだ。「ダラマン!ダラマン!王さま!王さま!———国王陛下、万歳!」
「誰もいないではないか。そうか、お前たち巨人はこうして人間族を欺くこともするのだな」
そうして王がくるりと後ろを向いたのを見計らい、リリーがただ一人、棲家から姿を現した。
「ダラマン王、お会いできて光栄です。リリー・ロッツォと申します」リリーは丁寧に深々とお辞儀をした。
「そなたが無礼にも城まで訪ねてきた女か。捕らえよ!」
「それには及びません」すかさずリリーが口を開いた。「我々は戦うためにここにいるのではありません」
「ではなぜ参った?」王が尋ねる間にも、リリーはすっかり人間族の軍勢に背後から両腕を掴まれてしまった。
「巨人族は野蛮で危険な人種ではないとお伝えするためです」
「はは、何を言う。そなたはその野蛮ではない巨人たちに捕まったのだろう?」
王が高らかに笑うと、それに続いて軍勢も一斉に笑い上げた。彼らが動くたびに、鎧や剣のぶつかる嫌な金属音が森中に響き渡った。王の顔はいっそうみにくく見えた。それでもリリーは凛とした態度で、冷たく鋭い王の視線をしっかりと捉えていた。
「ええ、その通りです。ですが、いま私はこうしてここに立っている。もしあなた方の言うように彼らが本当に野蛮で危険なのであれば、とうの昔に私の命は無くなっているはずです。ではなぜ無傷でいられたのか。それは彼らが決して私に手を出さなかったからです。私が抵抗したわけではありません。彼らが進んでその選択をしたのです」
リリーは腕をきつく押さえられたまま、くるりと振り返り、巨人たちがじっと待っている棲家を見据えた。
「彼らが望んでいるのは、あなた方人間族との共存、平和な暮らし、ただそれだけなのです」
ふたたび軍勢からはどっと笑いが起こった。
「あなた方は彼らの姿、形だけを見て、彼らは野蛮で危険な種族であると決めつけたのではありませんか?王であるあなたは、一度でも、ここにいる巨人族の長であるバンプー・ダンダンと話し合いをしたことはあるのでしょうか」そう言うとリリーは、サッと身を引く動きをした(実際には両腕を掴まれていたのであまり機敏には動けなかったのだが)。するとそこへ一人の巨人がゆっくりとやって来た。
「なんだ、なんだ。とうとう巨人様のお出ましか?」にやりと笑みを浮かべた王の声が轟いた。
しかし、王が余裕なそぶりを見せていられたのはここまでだった。次の瞬間、雷のような地響きのような呻き声が聞こえたかと思うと、巨人の体が大きくうねり出し、長い体毛が風になびき、皮膚は伸び縮みし、ついに四つん這いの体へと姿を変えた。
「ありがとう、リリー。ここからは私の仕事だ」そう言うとバンプー・ダンダンはパタ、パタ、と足音を立てながらダラマン王へと近づいた。巨人が変身できるなどまったく知らなかった兵士たちは、突然現れた威厳溢れる、美しくも恐ろしいその姿に釘付けになった。リリーは自分を取り押さえる力が弱くなったことに気づき、その隙にサッと腕から逃れ、バンプー・ダンダンのすぐ後ろに控えた。
「人間王・ダラマンよ、私が巨人族の長、バンプー・ダンダンだ」彼の澄んだ低い声が響き渡ると、ダラマン王はその声に一瞬硬直し、静かに後退りを始めた。
「王であるという威厳はないのか?」バンプー・ダンダンは低く呻くように言った。
「我々巨人族は、その多くの命を人間族によって奪われてきた。子どもも大人も関係ない、罠にかかればすべては皆殺しだ」
その言葉が重く、耳に突き刺さった。リリーはじっとその場を見守っていた。王の軍勢がこれまでどれほど多くの命を奪ってきたのか、そしてそのことがどれほど大きな罪であったのか。そしてその悲しみを、目の前に立つバンプー・ダンダンの大きな背中がすべて背負っているかのように感じられた。
「それに対し、人間族はどうかな。きみたちが野蛮だ危険だと決めつける我々に殺されたという者は一人でもいるだろうか。人間の王よ、我々には皆等しく命は一つしか与えられていない。その命をこんな野蛮な行為ではなく、共に平和に暮らすために使えないだろうか。我々の願いは、それだけだ」
長い沈黙を破ったのは、カランという一つの音だった。次いで、あちらこちらからカラン、ガシャン、カラカラ、と音がし始めた。なんと王の後ろに控えていた人間の軍勢たちが次々に自分の剣を地面へと置いていたのだ。鎧を外し始めた者もいる。
「何をしている!こんな巨人の言う言葉に耳を貸すと言うのか?」ダラマンが体を震わせながら叫んだ。
しかし、もはやそこにいる誰もが戦う気持ちなど持ち合わせてはいなかった。リリーとバンプー・ダンダンの話は、ダラマンを除くすべての兵士たちの心を捉えていた。ただ一人、王だけがその威厳を捨てきれず、何も言えずに体を震わせていた。
あたりの空気はまだ冷たく、地面はその衝撃を吸収しきれずに重く沈んでいる。だが、戦場の音は消え去った。耳をつんざくような冷徹な静寂は、終わったのだ。
「これでよかったと思える日が必ず、来る」バンプー・ダンダンは王にそう告げるとサッと姿を消した。自分の役目を終えると忽然と姿を消すのがバンプー・ダンダンであると理解していたリリーは、彼を追うことはしなかった。
この日の明け方、彼女は四つん這いの姿になったバンプー・ダンダンと二人きりで話をした。そこは巨人たちの棲家がよく見える、少し離れた小さな丘の上だった。
「どうして私だったの?ほかにも人間はたくさんいるでしょうに」リリーはずっと疑問だったことをとうとう尋ねた。バンプー・ダンダンはそっと静かに長い息を吐いた。彼の長い柔らかな毛がゆらりと風になびいた。しばらく沈黙が続いたかに思えた。そしてその沈黙は、彼のパタ、パタ、というこちらへ近づいてくる足音によって破られた。
「傷ついたことのある者は、他者に手を差し伸べられる強い心を持つようになる。巨人族を救うには、その心が必要だったのだ」バンプー・ダンダンはリリーの隣で立ち止まり、そう答えた。このときリリーの頭の中に、これまで市場でかけられた心無い言葉の数々や、貧しさに哀しみ明け暮れた日々のことがかけ巡ったかどうかは、わからない。しかしそれはここですべてを語る必要はないだろう。彼女の心の中に留めておくべきことだ。
東の空が白んで、星々がかすみはじめた。彼らの目が、水平線のすぐ上にある一際大きな星———明けの明星を捉えた。
「これが終わったとき、すべては良い方向に進んでいる。さあ、征こう」バンプー・ダンダンの凛々しい声が、澄んだ朝日によって、より一層力強く響き渡ったように感じた。森中が揺れ動き、共鳴し合い、二人を囲むようにして大きな風が吹き抜けた。リリーは体の底から、沸々と強い意志と力が湧き上がってくるのを感じたのだった。
もうみなさんはお気づきの通り、ロッツォ家にたくさんの贈り物を授けたのは、このバンプー・ダンダンだったのだ。
祖母にすべてを話し終えると、リリーはしばらく黙っていた。部屋の中は静かで、時折聞こえる時計の針の音が、ひとしずくの水滴のように響いていた。部屋の隅に積まれた本や古い家具が、あの不思議な出来事を思い起こさせる。しかし、何もかもが本当に夢だったのかと、彼女の心はまだ信じきれなかった。
「そう、夢って不思議ねえ」祖母は静かに言った。リリーは顔を上げると、祖母の優しげな目がしっかりと自分を見つめているのに気づいた。「あなたも彼に会ったのね。」
「ええ……でも、どうして?」リリーは言葉を続けた。「おばあさまも、バンプー・ダンダンを知っているの?」
祖母は少し間を置き、静かにうなずいた。その顔に浮かんだ表情は、どこか懐かしさを湛えていた。部屋の中には、古びた家具と穏やかな光の中で長い年月を感じさせるような空気が満ちていた。その空気に包まれながら、祖母はゆっくりと話し始めた。
「ええ、ええ。もっとも、あなたが出会ったような、巨人や四つん這いの生き物の姿ではなかったけれどね」
リリーはその言葉に少し驚き、そしてその言葉の意味を探ろうと目を細めた。祖母は少し笑って、ゆっくりと立ち上がり、机の上の手帳を取ると、リリーの前に置いた。それは古びて少し色あせた皮の手帳だった。祖母の指がその表紙に触れると、リリーはふとその手帳から漂う、何とも言えない懐かしさを感じ取った。祖母がそれを開くと、そこには少し黄ばんだページが並んでいた。ページを一つめくると、一枚の写真が現れた。
「これを見てごらん。」祖母はその写真をリリーに差し出した。そこには若い頃の祖母と亡き祖父の姿があった。祖父はリリーが小さい頃に見た優しい顔そのもので、祖母はその時と変わらず、いまも優しい笑みを浮かべている。リリーはそのまま写真をじっと見つめ、彼らの若い姿に心が温かくなった。
「裏をご覧なさい」
言われるがままリリーが写真を裏返すと、そこには手書きで何かが書かれていた。「愛をこめて バンプー・ダンダンより」と、きれいな筆跡が目に留まる。
「バンプー・ダンダン?」リリーは思わず声を上げた。
「あれはおじいさまだったということ……?」
「これは彼の愛称ね。あの頃、おじいさまはちょっと風変わりで、自由な人だったから。彼自身が、この名前にぴったりだったのよ」そう言った祖母の顔に、久しぶりに笑顔が宿ったのをリリーは見逃さなかった。午後の柔らかな光が部屋を包み、心を落ち着けるように広がっていった。
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