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今もパンドラの箱は開いている
『深海学 深海底希少金属と死んだクジラの教え』
原題:The Brilliant Abyss
ヘレン・スケールズ [著] / 林 裕美子 [訳]
読了レビューです。
文字数:約2,300文字 ネタバレ:一部あり
タイトルからして、海の底にある深海について書かれた本なのが分かる。
私たちが生身で潜れるのは海の表層に過ぎないけれど、本書を道標にすれば目にすることのできない深層へと、読んだ者を連れていってくれるだろう。
◇
おおまかに本書は4部で構成されており、もっとも多くのページ数が割かれているのは、深海とは何かという初歩的な話や、人間と深海との関わり、そして深海における生態系などを扱った第1部だ。
第1部の冒頭では、そもそも「深海」という定義について次のように解説されている。
表層200メートル - 米国シカゴの街並みなら一区画の長辺 [東京の国立競技場の短径] くらいの長さ - より深い海域では、弱々しい青い太陽光だけがかろうじて残る。200メートルより深いと物理的な状態が変化して、海での生活は浅い表面海域と明らかに異なったものになる。定義上は、この深さから深海が始まる。
一言で「深海」と表現される場所についても、深さに応じて呼び方が変わってくるそうで、順に並べると次のようになる。
200 ~ 1,000 (m)
中深層:Twilight Zone・弱光層
1,000 ~ 4,000
漸深層:Midnight Zone・無光層
4,000 ~ 6,000
深海層:Abysal Zone・深海水層
6,000 ~ 11,000
超深海層:Hadal Zone
また、海に潜ると深さに応じた水圧がかかり、本書では次のように解説されている。
たった10メートルの深さでも、人間が素潜りすると肺は通常の大きさの半分に圧縮され、30メートルまで潜ると四分の一に押しつぶされる。人間は、中深層やそれより深い水中では、まったく無力になる。深海層では水圧が水面の400倍になり、これは車のタイヤの空気圧の150倍に相当する。
だいぶ前に見た、カップラーメンの容器を深海へ持っていった写真でも、ジオラマ撮影に使えそうなほど小さくなっていた。
元は魚だった人間は現在、水中から空気を得ることができない。さらに水圧と合わせた2つの障害によって、深海は未知の領域であり続けた。
しかしながら通信用の海底ケーブルを沈めるにあたり、海の深さを知る必要に迫られたことが、深海を知る契機になったそうな。
◇
そんな深海には太陽光が届かないので、生物にとっての食物は乏しい。
上から降る「マリンスノー」と呼ばれるプランクトンの死骸や糞を食物とするにせよ、次のような解説で乏しさを強く実感した。
深い海底には、海水面で生産される食物のせいぜい2パーセントしか沈んでこない。陸上でこれに相当する状況を想像してみるなら、草や木や花や種子や果実のようなものは何もなく、空からパンくずがパラパラ降ってくるだけといったことになる ── クジラの死骸はたまに降ってくる。
それでも深海に適応した生物がいるし、海底における源泉のような熱水噴出孔では、どこか別の惑星かと思えるような生態系が存在している。
いつか観た深海に関する番組にて、「スケーリーフット」という生き物がいると知った。
一般名を「ウロコフネタマガイ」といい、SFやファンタジーに登場しそうな鉄製の殻を持ち、足は鱗に覆われている。
有毒な液体を噴き出している熱水噴出孔に住み、過酷な環境から身を守るための進化だと思っていたけれど、本書を読んで実際は逆だと分かった。
つまり自身を守るためでなく、熱水からエネルギーを得た副産物が鉄製の殻と鱗だそうで、進化の奥深さに思わず声が出た。
◇
第3部と第4部では、深海に手を伸ばす人間の欲深さについて書かれており、浅い海と同じ漁場のように利用した結果や、鉱山として開発する危険性について述べている。
その前に置かれた第2部の冒頭では、海の温暖化について次のように解説されている。
人間が排出する余分な二酸化炭素は90パーセント以上を海が吸収している。もし海水がなかったら、地球の気温は工業化が進む以前より30℃以上高くなっていて、米国の夏の平均気温は70℃を超えていただろう。
そして温度が数℃違うことへの解説は、かなり衝撃的なものだった。
海の上層部の2019年の水温は、1981~2010年の平均水温より0.075℃高かった。数字だけ見るとたいした上昇ではないように思えるかもしれないが、海の上層2000メートルをこれだけ温めるのに必要な熱は、広島に落とされた原子爆弾36億個が出す熱に相当する。
現在エジプトで開催されている国連の気候変動対策の会議、COP27では気温上昇を1.5℃に抑えようとしている。
これも数字だけ見れば少ないように思えるけれど、朝晩と日中における気温差ではなく、地球規模で考えれば意味が変わってくる。
ただ、残念ながら数十年先の未来よりも、これからの冬を越すのが重要になってしまう。
今ある課題さえ取り組めていないのに、深海へと手を伸ばす人間の強欲さには呆れるし、未来という言葉は絶望によって舗装されているのかもしれない。
正直なところ1人の人間ができることは少なく、次の世紀まで歴史が刻まれるかも不透明だ。
それでも本書が、パンドラの箱に残されたとする希望になればと願っている。
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