片腕にかかえる かけがえのないもの
【文字数:約1,500文字】
フォローしている方が自宅にて、電球の交換中に骨折したという記事を読んだ。
高所作業において「1メートルは一命取る」などと言われるけれど、今回は右手を使ったことで最悪の事態は避けられたようで、ひとまず安堵した。
いわゆる健常者には左右2本の腕があり、片方で支えたり掴んだりする一方、もう片方で細かな作業ができたりする。
何かしらの要因で片腕が使えなくなるとその連携が破綻して、たとえば洗濯物を干すことは難しくなる。
事故や病気などで片腕が使えなくなった方向けに、洗濯ばさみを開いた状態で固定できるものがあると、以前にどこかのニュースで見聞きした。
スマートフォンも左手で支えて右手で打つ、あるいはその逆で使うことが多いわけで、かつての二つ折り携帯みたく片手だけで操作するのは、現行の板みたいな形では難しい。
そうしたものが頭に浮かんだ後で、ある日における図書館での出来事を思い出した。
カウンターの前に立つ女性は2人のお子さんがいて、1人は児童書のコーナーに走って行った。
女性はその子を気にかけつつ、追いかけることはできない。
借りた絵本をトートバッグに入れねばならなくて、それを片腕で行っているためだ。
女性は見たところ健常者だけれども、自由に使えるのは右腕だけなので、バッグに絵本を入れるのに手間取っている。
なぜか。
それは左腕に乳児を抱えているためで、右腕を使っている間は左腕1つで支えなければいけない。
子供を抱っこした経験のある人なら分かるだろうけれど、片腕だけで子供を抱っこするのは強い不安を伴う。
すごくイヤな表現をするとバッグみたいに持ち手があるわけでもなく、それでいて頭が大きく重量のバランスが悪いため、抱っこひもを使わないなら両腕を使いたい。
もちろん何があっても絶対に落とすわけにはいかない。
女性が抱っこひもを使っていないのが悪い、という人は40℃の熱湯入りペットボトル2~3個を抱える負担を考えて欲しい。
ともかく、女性は右腕だけで絵本をバッグに入れていたので、それなりに時間がかかっていた。
図書館の職員は隣のカウンターでの作業を手伝い、たぶん女性は時間にして30秒くらいかけて本を入れ終えた。
その間、私は後ろで見ていたからこの記事を書いているわけだけど、あのときすぐに手伝えば良かったのだろうかと、ずっともやもやしている。
知らないキモ男が後ろから声かけたらイヤかも、などと配慮のような保身の気持ちが働いて、結局は何もせず見ているだけだった。
児童書コーナーに走っていった子供が足音も勇ましく、けっこうな勢いだったのに気を取られていたのもあるとはいえ、「手伝いますよ」と声をかける時間はあった。
こういうとき、手助けをするには他者の観察とともに瞬発力も必要だなと、あらためて思う。
残念ながら成人男性は敵と見做されることも多いので、本当に相手が困っているかの確認をするのに時間を要する。
過去には道端でうずくまる人に声をかけたし、満員電車からはじき飛ばされて倒れた人の手を取り、踏まれないよう立たせたことがある。
それでも加齢とともに瞬発力は衰えるし、「他の人が助けるでしょ」という他力本願の形で無視をする機会が、どうしても増えているような。
コロナ禍もあって、無意識に他者との距離を取りたくなっていたのも、たぶん無関係ではない。
私は人の混雑がよほど酷くない限りマスクをしなくなったし、そうした人間が近づくのを避けたい人もいるだろう。
とはいえ、子育てと同じように絶対の正解はないのだろうし、これからも適切な声かけを模索していく必要がある。
先の骨折の記事を読んで、そんなことを考えたのだった。