世界を操る君と僕と、セカイ系の革命:『天気の子』
どうもです。
見てきました。天気の子。同時上映のアレで。
いやほんと、新海誠監督の全身全霊が見られる圧倒的な映画でした。こんな映画を、このタイミング、このクオリティ、この規模で提供できるのは新海監督しかいないでしょうし、監督が信じ続けたものを貫き通していると私は思います。
今思えば「世界を変えてしまったんだ」というトレーラーのセリフこそ、この映画、そして新海監督の信念をまとめていた一言でした。
「おかしいな」とは思ってたんです。大の雨好きで知られる新海監督が「晴れ女」のハナシって、「お前そんなに嗜好変わったんか?」て感じですし。いざ蓋を開けてみれば、今まででもっとも監督のスタイルが顕然としている作品でした。
構造としては「セカイ系」のお手本のような物語ですが、中身はゼロ年代のそれを、現代に対する1つの回答にまで昇華させた凄まじいものです。
↑新海監督が描き続けた「セカイ」たち
天気を操ることは、世界を操ること
主人公の少年「帆高」は、サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』(しかもわざわざ村上春樹訳の!)を引っ提げて、島から東京に家出してきます。夏の東京は、「観測史上初めての」長雨で毎日雨が降っていました。そこで、天に祈ることで晴天を呼ぶことができる少女「陽菜」と出会い、彼女が背負う「世界の秘密」を知ります。
「天気とは天の気分だ」と劇中で言われているとおり、少女は世界を操る力を持っています。しかし、その代償に、狂った天気を元に戻す「巫女」としての宿命を背負っている。なんとも往年のセカイ系そのもので、第1作『ほしのこえ』を思い出させる設定です。
さて、行く当てもなく、東京で孤独に苦しむ穂高は、オカルト編集者の須賀と出会い、彼の事務所で働くことになったことで、社会に居場所を見つけます。そして、スカウトマンに連れられる陽菜を助けたことで、彼女と親しくなっていきます。
アルバイトを探していた陽菜は、自分が「100%の晴れ女」であることを活かして、晴天を届ける「お天気ビジネス」を始めます。
天気って不思議だ。ただの空模様に、人間はこんなにも気持ちを動かされてしまう
雨ばかりの東京に晴れを届けること、それは「天の気分」を操ることであり、同時に人々を幸せにすることでもあります。劇中歌に合わせて次々と依頼に答えていく描写は、高度にデザインされていて、とても高揚感を感じられます。
「天気」はキャラクターの気分に合わせて変わる心象風景の1つです。新海作品では、背景はいつでもキャラクター以上に情報量が豊富で、言葉に現れない多くのことを物語る存在でした。『言の葉の庭』をはじめ、1つの「天気」でも無数のバリエーションを表現しています。一方で、画面の情報量に対して、主人公はむしろどこにでもいる普通の男です。しかし、このコントラストによって、新海監督のキャラクターは、誰でもない象徴として機能します(前の記事、湯浅監督とは同じ効果でも手法が異なります。)
キャラクター(そして観客)の感情に合わせて世界が美しく祝福してくれる、それこそが新海作品の魅力の1つです。天気を操作できることは自分、そして世界のすべてを操っていることと同じです。
美しくあることを辞めた背景
晴天を祈るシーンもそうですが、この作品では、神に祈る描写がたくさん見られるのが印象的です。祈り、つまり思い通りにならない現実から脱却するための願いは、まるで世界と自分が繋がっているかのように、すべて受け入れられていきます。
前作『君の名は』も、世界を自分たちの好ましいように操作してハッピーエンドに変える物語でしたが、『天気の子』ではそのような全能感がより露骨に描写されています。
世界を思い通りに操れた陽菜。しかし、異常気象がピークを迎えた夜、ホテルで尊い時間を過ごした後、陽菜は消えてしまいます。
陽菜の犠牲によって「救われた」東京の姿は、これまでの新海作品の象徴だった、瑞々しくてキラキラ輝く東京ではなく、まるでセカイ系というジャンルを生んだ『新世紀エヴァンゲリオン』の世界のように、乾いた陽炎で揺らついていました。一面的な光のエフェクトと、不自然に白っぽい画面が、強引に雨が奪われたことを暗示しています。
この映画は、「世界に太陽を取り戻す物語」では決してありませんでした。
この作品の中で(あるいは新海監督の中で)、「晴れ」は社会の常識の側に存在するものです。人々の中には、雨を好む人もいるかもしれませんが、それは少数派の意見です。しかし、新海監督が描いてきたのは、そんなネームレスな人々でした。
劇中では、雨粒が極端に強調されています。冒頭で帆高が雨を喜んでいたように、雨は今作において生命力あふれる肯定的な役割を持っています。一方で、雲の隙間から漏れる日差しは、一見神々しく美しいですが、「雲の上の世界」へのゲートでもあります。
社会がどれだけ帆高の邪魔をしようとも、帆高は迷いなく陽菜のもとまで走り続けます。「もう二度と晴れなくたっていい! 俺は陽菜がいい!」と叫ぶ姿は、世界よりも女の子を選ぶセカイ系の主人公そのものです。『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』で、サードインパクトを起こした碇シンジのセリフが想起されたのも私一人ではないでしょう。
セカイ系の終焉、「オタク」の死
では、この映画は今更ゼロ年代の「古き良き」アーキタイプを持ち出してきただけの映画なのでしょうか?
前作、『君の名は』もまた、「セカイ系の集大成」だと多くから語られた作品でした。
『君の名は』は、主人公が入れ替わって世界線を移動することによって、かつて起こった災害から女の子を救うという、「バッドエンド」を「ハッピーエンド」にする物語です。
宇野常寛氏の言うように、従来のセカイ系は、「ポスト・エヴァンゲリオン症候群」であり、世界の運命を背負った少女から都合よく無条件に愛されること、それによって充足することを望む、男性的なマチズモの露悪的な表れでした。
しかし、『君の名は』において、セカイ系は大胆に修正されます。渡邉大輔氏は、主人公をポストゼロ年代的な「外交的で、自分の力で何かが変えられると信じている少年」にすることで、大衆から共感されたと分析しています。
また、ハッピーエンドへと世界線を渡っていく物語は、かつて新海監督がかかわった美少女ゲームの典型であり、新海監督の本領である、観客の反応をデザインする編集術を存分に活かすことができます。
君の名はが何よりも衝撃だったのは、細部までデザインされたことと、時代の妙によって、本来人を選ぶはずのセカイ系が、全国的に支持されてしまったことだと前述の渡邉氏は結論付けます。
もはや、セカイ系は社会に溶け込めないオタクのマチズモを満たす物語ではなく、世界は自分の都合通りに変えることができるという人類への希望、あるいは高揚感の装置に生まれ変わりました。私は、もはや『君の名は』をセカイ系と呼ぶことはできないと考えますが、それほどまでに新海監督がセカイ系を更新した(あるいは東浩紀氏が言うように終わらせた)のも事実でしょう。
君の名はが提示するのは、世界と自分は対立しないことです。土居信彰氏は、世界と自分をイコールで結ぶ新しいリアリティだと分析します。
瀧は果たして本当の意味で世界と対峙したのか? 『君の名は』を観ると、彼と世界との間には境界線がないように思えてくる。世界は彼の思った通りに変容していく。瀧と世界とのシンクロ具合は、むしろ、世界が彼のために存在しているようにも思える。(p.28)
以上の土井氏の話は男性側からの視点ですが、三葉を通した女性側の目線も大きく変わらないでしょう。世界が瀧と三葉のためだけに存在している。このような感覚は、従来のオタクたちが尊重してきた大きな物語や世界観をラディカルに自分事化する試みです。
物語消費の時代に生まれていなかった私のような人には、このような世界との距離間は好ましく感じられるものですが、一方で、ご都合主義的だと言う批判も集まります。
宇野氏は、『君の名は』を、東日本大震災を「泣ける舞台装置」に変換し、その一切を忘却することで視聴者に癒しを与えていると批評します。
常にヒロインと世界とを結びつけ、どれだけ世界を広げようと最後まで個人的な物語で収束するのが新海監督の素晴らしいところだと私は思います(『星を追う子供』がもっともそれが顕著だと思います)。しかし、『君の名は』では、そのような物語を用いて震災から立ち直ることを目指した結果、震災をなかったことにする間違った救済なのではないかという批判も多く集まりました。
特徴のない主人公、美しい美術、音楽との融合など、主人公の2人に共感が集まるよう綿密にデザインされたアニメーションは高く評価された一方で、物語自体の評判は賛否両論に分かれたのもまた事実でした。
「セカイ系」のアップデート、「社会」との距離
そのような批評に対するアンサーとして、今作ではむしろ逆に、往年のセカイ系としての色を強めます。
『君の名は』において、なかったことになった(と多くの人が見なした)震災は、今作では、主人公によって、今度は東京で引き起こされます。
しかし、そこにゼロ年代のセカイ系ではお馴染みだった、「少女を選ぶか世界を選ぶか」という迷いや葛藤はありません。世界を意のままに操ることができた帆高にとって、「少女か世界か」など、最初から問題ではないのです。世界とは自分たちを彩る存在であり、自分たちが操作できるものなのですから。
世界の仕組みは、そう望めば簡単に変えられる。その代わりに、帆高を邪魔するのは、かつてセカイ系で排除された「社会」です。
取調室から脱出した帆高の前に、須賀が現れます。帆高を諭す須賀の思考は、社会的にこうするべきだという常識に基づいています。対して、帆高は世界を滅ぼしてでも陽菜を助けたいという願いを信じている。
最大多数の幸福を望む一般的な考えに盾突く帆高の思考は、社会から完全に逸脱しています。
帆高と社会との決別を衝撃的に示すのが、帆高が歌舞伎町で拾った「拳銃」です。
所持していること自体が許されないそのアイテムは、彼が社会と決別していく物語を象徴付けています。同時に、「家出して東京で生きようとする16歳の少年」と、「身寄りがなく一人暮らしをする貧しい15歳の少女」は、どちらも社会において許されざる存在です。
社会が二人の出会いを邪魔するとき、彼は社会に向けて銃弾を放ちます。ロケハンされた現実通りの背景に、その音は何よりも異様に響きます。それは、自分たちが思い通りに生きられないことを叫ぶ最後の手段でもあるのです。
そして、社会から逸脱していく(あるいはせざるを得ない)子供たちこそ、この作品でやりたかったテーマだと、監督はパンフレットで語っています。
今回の作品の柱として一番根本にあったのは、この世界自体がくるってきたという気分そのものでした。世界情勢においても、環境問題においても、世の中の変化が加速していて、体感としてはどうもおかしな方向に変わっていっている。そう感じている方はすくなくないような気がします。ただ、それを止めなかったのも僕たちです。今の世界は僕たち自身が選択したものでもあります。
(中略)
でも一方で若い人たちにとっては、今の世界は選択の予知すらなかったものです。生まれた時からこの世界はこの形であり、選択のしようもなくここで生きていくしかない。
本作において新海監督が提示した「セカイ系」とは、社会の消去ではなく、むしろ社会に対する強い想いの表れなのです。
これまでのセカイ系において、社会の消去は、社会で受け入れられないオタクのアイデンティティを反映していました。しかし、『天気の子』では、明確に社会が表現され、その存在を認めたうえで、社会から逃避することを選択します。
明確に社会に根差すことで、このアニメーションは、現代で生にもがいているすべての人々を象徴し、救済しようとします。小説版の解説で、RADWIMPSの野田洋次郎氏はED曲『大丈夫』をこう説明します。
何も陽菜だけではなかったのだ。そしてすべての人が、そんな自分だけの「世界」をもがきながら生きている。その姿を近くで誰かに見てもらえる心強さや安心感を知っている。(p.308)
物語のラストで、須賀は「世界はどうせもともと狂ってる」と帆高を慰めます。また、冨美は今の東京は「埋め立てた場所がもとに戻っただけ」といいます。
あるいは確かに狂っていたのかもしれません。15歳の少女がアルバイトをしなければ生計を立てられない、若者が陥る貧困を見れば、誰だって狂っていると思うでしょう(君の名はで描かれた「パンケーキ」は「カップ麺」に変わっています)。そして私たちが生きる現代世界もまた、異常気象と貧困という同じ問題を抱えています。
しかし、大人たちの言葉に対して、「何か」を祈る陽菜の姿を見た帆高は、次のように気づくのです。
違ったんだ。世界は最初から狂っていたわけじゃない。僕たちが変えたんだ。
水没した東京。それは、かつて帆高と陽菜が逃避してきた場所です。この東京の姿は、帆高と陽菜が、「晴れ女」であることを拒絶し、2人で生きることを選択した証であり、セカイです。
陽菜が何を願っていたのか。帆高のことか、昔の東京の輝きか、もう二度と見ることができない青空か。
自分たちが自分たちであろうとした犠牲に、世界は狂ってしまった。自分たちが変えてしまった。しかし、そのことを帆高は知っています。彼女が抱えている世界の秘密を、帆高だけは知っている。何が狂っていて、何が狂っていないかを決めたのは、ほかでもない自分たちであることを。それが、どれだけ貴重で幸せなことか。そして、そうである限り、2人は「大丈夫」なのです。
物語は劇伴の大合唱によって、暴力的に二人の結論を肯定して終わります。ともすればそれは、世界に対する反逆ではないかと捉えられかねません。しかし、彼らが彼ららしく生きることができないなら、邪魔をする常識や道徳なんて狂わせてしまえばいいのです。監督が言うように、物語は道徳の教科書ではないのです。
私たちの現実世界でも、何かがおかしくて、何かが間違っていて、何かが正しいのか、曖昧になることがあります。しかしそれでも、自分たちで選んだことはきっと間違いではない。選択すれば、必ず世界があなたの肩にのしかかる。でも、あなたが世界を肩に背負っていることを知ってくれる存在がいれば、それだけで、私たちはきっと大丈夫なのです。
着地点は、従来のセカイ系が抱える鬱屈さを、現代の価値観から肯定するものです。これだけでもセカイ系の現代化と言えそうですが、加えて『天気の子』は「社会」を挿入することによって、セカイ系を(再び)根本から書き換えた作品であると言えるのではないでしょうか。
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ついき
社会を挿入したらもはやセカイ系ではないのではないか。そういった意見もわかります。しかし、個人の問題を解決することで世界が直接変化する構造はセカイ系の特性で、新海監督の素晴らしい部分だと思います。社会はそのリンクを邪魔する背景にしかならない、そんな純粋な「私たちの世界」を、私はとてもフラジャイルで、美しく感じました。
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参考文献&URL
宇野常寛『母性のディストピア』集英社
土井伸彰『21世紀のアニメーションがわかる本』