ソクラテスの弁明 篇
チャオ
今回は哲学の話するなら多分外せない、ソクラテスについて書いていきたいと思います。
『ソクラテスの弁明』は僕が大学に入るにあたって一念発起し、最高にフレッシュな状況で読んだ本であります。そしてそのまま、僕のフレッシュを吸い取ってカッサカサにしてくれた本でもあります。
というのもこの本、とにかく小難しいんですよね。プラトン、全文パンチラインにしてやろうって気持ちで書いたのかと疑います。
十行飛ばすともう何の話をしてたのか、すでに分かりません。初めて英文読んだ時と同じ気持ちになってしまいました。
速読をする人は、本の重要な文だけを選んで読むから読むスピードが速いと聞きますが、僕は『ソクラテスの弁明』だけは同じスピードで読める自信がありますよ。
文句はこれくらいにしておきまして、もうこんだけ言われてソクラテスの弁明を読む気になれない人のために簡単にあらすじを書きますと
ソクラテス論破おじさん、ギリシャでブイブイ言わす
↓
敵も味方もめっさできる
↓
敵に裁判起こされる ←ここの話です
裁判を起こしたのは、プライド高めの若い兄やんメレトスとその後ろにいる大物政治家です。いつの時代もバックにいるのはこういう存在ですよね。
メレトスは、ソクラテスが若者を堕落し、国を悪くしている上に、神を信じない悪者であると主張します。
ソクラテスは論破おじさんだったので、某ひろ○きの如く信者もアンチも強烈だったということです。
しかし、ひ○ゆきとソクラテスでは明確に違う点があります。
ひ○ゆきはなんでも知っているかのように話しますが、ソクラテスは自分は何も知らないということのみを知っているというスタンスのもと話すのです。
(ついでに論破を目的として話すか否か、という差もあると思われます。まさに現代のソフィスト、ソフィゆき)
ソクラテスは何かにつけて自分は物事を知っていると豪語する人を見つけては、質問を重ねます。そして、相手が質問に答えられなくなったところで
「あなたは知らないことを知ったように話すが、私は自分がそれについて知らないことを知っている。ゆえに私に及ばない。」
というふうに若者を啓蒙&ムカつかせしていたわけであります。
これこそが、かの有名な”無知の知”です。多分
話戻しまして、ソクラテスは裁判で自己弁護をしてメレトスをいつもの質問攻めで論破します。メレトスはソクラテスに「それってあなたの感想ですよね」をくらってしまったというわけです。
裁判は終始ソクラテスのペースで進んだのですが、裁判員の投票で票数が僅かに及ばず有罪となります。
ついでに諸々あって刑罰としてソクラテスは死刑になります。
その後、弟子たちや友人に脱走を勧められますが、ソクラテスは逃げずに尊厳を守ることを優先します。
さらに、ソクラテスはこの時、無知の知の最終形態とも言える
死に関して善悪を知らない=怖がることもない
という論理を披露し、自ら毒を煽って亡くなります。
この際に放った言葉が、かの有名な「悪法もまた法なり」です。
かなり色々端折りましたがこんな感じです。端折りすぎたので原型とどめてない可能性が高いです。やっぱ読んでみてください。
さて、無知の知という論理を人生通して突き通し、最後には無知の知のもとに死ぬ。一貫しているのはかっこいいんですが、
これは、、普通に考えてやばい生き方ですよね。
もし当時のギリシャでソクラテスに影響を受けた最先端”無知の知”使いが二人で会話したとすると
「俺は〇〇について知らないよ」
「僕も知らない」
~おしまい~
みたいなことになってたかもしれないですよね。
これはあまりにも不毛な例ではありますが
一つ言えることは、無知の知がこれだけセンセーショナルな概念だと思えるのは
ソクラテスのような論理で一生を貫き通す人が今までいなかったからではないでしょうか。
ここで重要なのは、”無知の知”論者が少ないという部分ではなく、無知の知であるためにずっと論理一本を通し続けなければならない点にあります。
無知の知は、「自分は何についても知らないということを自覚しているから知ったかぶりよりは頭がいい」というものすごくシンプルな論理です。
しかし、シンプルであるがゆえに日常生活で自分が何かについて知っているということを示すと即論理が崩壊するのではと考えます。
例えば、自分の目の前にものがあるということを証明するのは難しいですよね。なぜなら、ひょっとしたら目の前のものは東京都が金をかけて作った素晴らしいプロジェクションマッピングに映し出されたリアルな虚像かもしれませんし、僕たちは機械の中で超リアルな夢を見ているだけかもしれません。
ですが、もし機械の中にしろ、外にしろそれを証明することはできません。少なくとも僕はできません。
よって、目の前にそのものがあるかどうかについてすら”無知の知”論者はYES/NOを言うことはできないのでは無いでしょうか。
つまり、ソクラテスは’僕何にも知らないよbot’だったのではないかということです。
ですがそれでいいのです。ロボットが如く同じことを言い続けなければ自分自身が矛盾してしまう論理は、おそらくソクラテス以外の何者にもできないでしょう。
ゆえに、ロマンがあります。カッコイイ!
いずれにせよ、僕たちが
「ソクラテスの弁明を読んだから僕はものごとについて知らないということを知っている!」
という発想になるのは傲慢かつ危険なのかもしれません。
良くも悪くも、無知であることをずっと自覚し続ける生き方というのは思考の発展が難しそうですし、
何より、自分は何も知らないことを知っていると宣いながら
日常生活で何かについて知っていると語ったら、それはもう無知の知を知っているとは言えませんよね。本質的に自分は物事を知らないと自覚できていない人が”無知の知”という言葉の上っ面だけ使うのは、言葉をファッション化しています。
それはもう言うなれば”無知の知の無知”とも言える状態なのです。
相当話がややこしくなってしまいました。まあでも結局のところ気にしないのが一番なのかもしれません。
なぜ人は、自分が物事を知っていると思うのか、知ったかぶりをするのか
本当はこれも書く予定でしたが、ちょっと次回にさせてください。
少なくとも今の僕はなぜ人は知ったかぶりをするのかについて考えるのがちょっとめんどいということを知っています。
無知の知という言葉をこねくり回して自分の深みを感じさせようとするのも現代の外見至上主義の風潮ぽいですし、初心に戻ってこの問題について考えていきましょう。
次回
”無知の知”問題をセクシーに
あざましたー
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