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正義ってなんだろう

正義。

私は、このことばを見るとすこし身がまえていました。自分の正しさを、他人に押しつけるときに使われるイメージがあったからです。

しかし先日、『これからの正義の話をしよう』を読んだことで、このイメージが変わりました。正確にいえば、私のイメージは「すこし正しい」のだけれど、正義の全貌を語ることはできていないのだと知りました。

今日は、この『これからの正義の話をしよう』のまとめと感想文を書いていきたいと思います。

著者のマイケル・サンデルは、人と人との関係性、法律、社会の正しいあり方こそが正義なのだといいます。

では、それらはなにを以って正しいと決めればよいのでしょうか。サンデルはこの問いに対し、以下の3つのアプローチを提示しています。


1つ目のアプローチは、幸福の最大化
幸福を「苦痛に対する快楽の割合」と解釈して、社会全体の幸福を最大化するのがこの考え方です。専門的には功利主義というそうです。

功利主義は、経済の繁栄と密接にかかわる考え方になります。社会にある課題(苦痛)を解決し、よい方向に持っていくこと。これはおそらく、ビジネスシーンの基本ですよね。

しかし功利主義をつきつめていくと、ある問題が生じます。それは、社会全体の幸福のために踏みつけにされるひとが生まれるということです。

例えば。
去年世界でもっとも個人資産額が多かったのは、アマゾンのCEOであるジェフ・ベゾスだそうです。その資産、なんと1310億ドル。日本円にして約14兆6600億円です。

こんなにお金持ちなので、ベゾスにとってたとえば1億円くらいは、たいした額ではないかもしれません。でも、私たちにとっては、その1%の100万円でも十分大金ですよね。

つまるところ、もし「社会全体の幸福の最大化」こそが正義であるならば、ベゾスのお金を低所得者に分配するルールが制定されてもおかしくありません。ベゾスの1億円を100等分して低所得者に配れば、社会全体の幸福はかなり底上げされるからです。

しかし当然ですが、この話にはなにか違和感を覚えます。

高所得者だからといって、そのお金をむりくりに徴収してしまうのは、彼らの人権をないがしろにしているともいえます。これが上述した「社会全体の幸福のために踏みつけにされるひと」の例です。

また、逆に貧しいひと1人を犠牲に、富豪100人の幸福度が上がる施策があるとするならどうでしょう。これも功利主義にかなっていますが、ますますなにかずれている気がします。

と、功利主義にはこうした欠点があります。

この「不幸を減らし幸せを増やす」という考え方は、自分ひとりにかぎった話であれば有用だと私は思うのですが、社会全体にまで拡張するとなかなかきびしいものがあるようです。

2つ目のアプローチは、自由の尊重
これは、そのままですが、他人に危害を加えないかぎりは、なにをするのもその人の自由だという考え方です。専門的にはリバタリアニズムというのだとか。(むずかしい名前・・・)

リバタリアニズムは「自分は自分自身のものである」という考えのもと、恋愛から経済活動まで、人の意思決定に対する社会や法からのあらゆる制約をゆるしません。同性婚を禁止する法も、もちろんこの考え方が拒絶するものとなります。

なんとなく、現代の感覚にちかいと思うのは私だけでしょうか。「わたし、定時で帰ります」というドラマが話題になったのは、「定時で帰る自由」を毅然と行使する主人公に多くのひとが共感したからではないかと思います。

私の身体も、心も、お金も、すべて私のものなのだから、それを使ってなにをするのも私の自由だ。この考え方には、一見なんのツッコミどころもないように思えます。

では、自殺はどうでしょうか。
命もその人自身のものなので、いつ捨てたとしてもその人の自由なのでしょうか。

このあたりの話が、リバタリアニズムの争点になります。上記の問いにYesと即答できるひとも一定数いるでしょうが、No、もしくは決められないと答えるひともおそらくたくさん存在しますよね。

また、他にも例を挙げると・・・。

フリマアプリでマスクの値段が高騰していたのは記憶にあたらしいです。そしてつい先日、マスクの高値転売を規制する政令が施行されました。

この話、リバタリアニズムの観点からかんがえると、政府は転売ヤーの「取引の自由」を奪っているともいえるのではないでしょうか。

もちろん、直感的には「ふつうによくないこと」だと私も思います。しかしリバタリアニズムの観点からだと、それがなぜよくないのかを説明するのはなかなか骨が折れそうです。

いい思いをするのは少数の転売ヤーだけで、値段が高すぎてマスクを買えないひと、買いはするけど全然納得はしていないひとなど、多くの国民がいやな思いをしている。つまり社会全体の幸福が増加していないので、これはよくないことだ。と、功利主義的に批判をすることもできると思います。

でも、私はもうすこし直感的に、「非常時に人の足もとをみるようなやり口が卑劣だから」よくないのかなと感じています。つまり、これはモラルの話です。そしてこの視点が最後のアプローチに関係してきます。

最後のアプローチは、美徳の促進
これは、美徳を反映した行政や法律によって、人びとのよりよい道徳観を養おうとする考え方です。すこしむずかしいですね。私も正直4割くらいしか理解できていないので、ここからは話半分に読み進めていただけると幸いです。

功利主義も、リバタリアニズムも、それだけでものごとを判断しようとすると、どこかでかならず「それはひととしてどうなのか」といった道徳的な問いに差しあたります。

しかし、道徳観はひとによって異なりますよね。無数の経験、無数の思考、そして(日本ではなじみが薄いですが)宗教的な信念が、そのひと独自の道徳観を形づくっています。つまり、道徳的な問いに対し、どのような答えを出すかは、ひとそれぞれで異なるわけです。

皆がちがう答えを持っている状況で、きちんと美徳が反映された社会を実現するにはどうすればいいのか。このアプローチの結論は、「皆で話し合って答えを出す」です。

したがって行政機関は、人びとが公の場で道徳に関して議論することを推奨していく必要がありますし、そもそも多様なひとが交流するための場づくりにも力を入れなければいけません。

このアプローチの懸念点は、皆で話し合ったとして、状況が好転するかは一切わからないところです。なにが美徳でなにが悪徳かは、結局結論が出ないかもしれないし、意見の異なる人たちの間にあつれきが生まれる可能性も十分にあります。

しかし、著者のサンデルはこのアプローチにもっとも希望を見いだしており、「やってみないことにはわからない」と述懐しています。

また、冒頭でご紹介した私の正義に対するイメージは、どうやらこの3つ目のアプローチに近いものだったようです。

しかしサンデルによると、自分の道徳観を相手に押しつけるというよりは、おたがいを尊重しながらキャッチボールをすることが、正義を語る上では大切らしいので、イメージを正しく更新しておきたいと思います。

サンデルは自身がどのアプローチを支持するかは述べましたが、それが絶対的な正解であるとは主張しませんでした。つまり、どのアプローチを支持するかは自分で決めなさい、ということだと思います。

どれもすごすぎる思想でしたが、強いていうと、私はリバタリアニズムが一番しっくりきました。ただ、サンデルが述べていた欠点ももっともなので、3つ目のアプローチとうまく混ぜ合わさせるといいのではないかと思いました。そういうのは無しなのかな?

正直、私にとってはかなり難解な本でした。マゾヒスティックな体験だったと言っていいと思います。ただ、分からないなりにがんばって食いついたので、ちょっと達成感は感じています。

せっかくこの本を読んだので、SNSで、自分の倫理観や信念を、柔和にすこしずつ発信していけたらいいなって思います。


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