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庭石菖の栞

小春の朝は、夫が散らかしたものを片づけることからはじまる。

階段を降りると、テーブルに汚れた皿が無造作に置かれていた。カレーが皿にこびりついてカサカサしている。椅子の下には裏返しの靴下や丸めたティッシュ。


息子を幼稚園に送った小春は、高速に乗って実家に向かった。
月に数回、母の遺品整理を手伝ったり、買い出ししたり、作り置きのおかずを用意したりしている。

ポストには新聞が数日分入ったまま。
不用心だなと取り出し、なにげなくめくって息を飲む。

災害対策について語る県職員の写真。
それは、幼稚園からいっしょの幼なじみで、小春のはじめての恋人、一樹だった。

高校時代の顔つきのまま、年齢だけを重ねている。
薬指に、シルバーの指輪が光っていた。


母の部屋で、懐かしい小説を見つけた。
手に取ると黄ばんだ紙が落ちた。厚紙に押し花を貼り、テープで補強した自作の栞だ。

すっかり色褪せた小さな花は、一樹に子どものころもらった庭石菖。石のすきまからひょこっと顔を出す小さな雑草で、六角柱の水晶に似た六枚の花びらが可憐で好きだった。

一樹は、クラスで浮いていたわたしによく花をくれた。実家の広い庭でかくれんぼや虫取りをして、いつもいっしょだった。

やがて小春にも友だちができたころ。
十歳で告白され、十七歳まで付き合っていた。



「おべんとう、おいしいね」

庭石菖の花に指先で触れていたわたしは、その言葉で現実に引き戻された。

息子が笑顔でサンドイッチをほおばっている。

家族で公園に来たのだけれど、夫は会社から電話が入って、席をはずしていた。


レジャーシートの上に影が落ちた。

知らない男がにやにやしながら立っている。五十代だろうか。日に焼けた顔には無精髭が散っている。

「分けてよ」

男が手を出した。
小春は身を硬くした。息子を隠すように肩を抱く。

「ねえねえ、おじさんにも分けてよぉー!」

男は幼子のように地団駄を踏んだ。周りに目をやる。皆、目をそらした。
息子をかたく抱きしめる。


雪の朝の記憶が蘇った。

バスの待合室で、知らない男が怒鳴りつけてきたときのことだ。

入口に一樹の姿が見えた。安堵して視線を向けた。
一樹は、窓に映る自分を確認しながら、セットした髪の毛を直すふりをした。

──たしかに、目が合ったのに。

庇ってくれなくてもよかった。せめて人を呼んでくれたら。
ひと月後。もう消えたはずの腕の痣をさすりながら、小春は一樹に別れを告げた。



小春の前を大きな背中が覆った。

夫だった。まだ電話は続いているようだが、夫は盾になるように男と小春の間に立った。長身で体格もいい夫に見下ろされた男は顔色を悪くして立ち去った。

庭石菖の花が、踏み潰されて散っていた。



朝、階段を降りると、テーブルは散らかっていた。椅子の下には裏返しの靴下や丸めたティッシュ。でも、皿はシンクの中で、水につけてあった。小春の口元がゆるむ。

小春は、庭石菖の栞を古い包装紙でていねいに包み、ごみ箱に入れた。


(1,199字)


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