特別な神域で得られるもの。
前回、この夏に奈良の大神神社にもの凄い勢いで呼ばれた話を投稿した。
今日は、その話の続き。
実際に大神神社を訪れ、御神体である三輪山に登ったのだが。
この三輪山、”神宿る山”だけあって、様々なルールが設けられている。
まずは、山に入る前に麓にある狭井神社(三輪の神様の荒魂を祀る神社)で届け出を出し、下山した際も報告が必要。
山中では必要最低限の会話に留め、水分補給以外の飲食は禁止。
もちろん、撮影も禁止。
山中にある草木、石などもすべて神が宿るため採取禁止。
そして、山内の事は他言無用。
…他言無用。
一体、この記事にどこまで書いていいのか…?
悩ましい…。
ぼんやり表現しておくと、山中のエネルギーは強いというよりも柔らかく優しかった。
細やかな粒子がキラキラと輝いている印象。
丹後の眞名井神社で感じたエネルギーと似ていた。
そして、私個人にとっては、何故この山に呼ばれたのかが分かる言葉が下山時に降ってきた。
その内容は、まさに灯台下暗し的なものだった。
詳しくシェアできないのが残念ではあるけど、代わりに「これはOK」と許可をもらった話をしたいと思う。
OKというより、この話は拡散を望まれているんだと思う。
先述したように、三輪山は山自体に神が宿るため山中にある自然もすべて採取NG、撮影NG。
山中ではすべてに神が宿る。
「八百万の神」
私の頭に浮かんできたワードだ。
日本は古代から(というより古代は特に)すべてのものには神が宿るという信仰を持っていた。
山を登りながら、
私の目に入ってくる草木、光、虫たち
私の耳に入ってくる鳥の鳴き声、水の音
それらすべてが神そのものなんだな、と想いを馳せていた。
そうか、私の足元で日の光が反射してキラキラと輝いているこの砂粒の一つ一つまでもが神様なんだ。
砂粒ひと粒も神様なんだ…。
…ということは、私は今、神の中に居るのか?
神と一体となっているということ?
いや、そうではなくて。
ある意味、私という人間も神なんだ。
だって、ここではすべてに神が宿ってるんだから。
そこに考えが及んだ時、ふと一つの疑問が生じた。
ここが特別な神域だから、そうなのか?
この山が他とは違うから、神が宿るのか?
この山中に存在しているから、神が宿っているのか?
私の答えはNOだった。
本来、どこに存在していても、すべてのものに神は宿っている。
それこそが八百万の神。
もしかしたら、残念なことに現代では「どこに存在していても」「すべてのものに」というワケではないのかもしれないが。
でも、本来の姿はそうであるはずだと思った。
こういった特別なご神域というものは、その本来のあるべき姿を思い出させるために存在し、私たちに問いかけてくれているんじゃないか。
本来は、すべてに神が宿る。
私にも。
もちろん、あなたにも。
本来はすべてが尊い。
すべてを尊ぶ心があれば、争いなど起こらない。
キレイゴトのように聞こえる可能性を含む言葉だが、私はその場で、その場のエネルギーを感じた状態で、体感を伴って、
あぁ…。
そういうことか…!
と肚落ちしたのである。
やはり、字ズラだけの知識は意味を成さない。
体感して初めて身に入ってくる。
でも、事前に字ズラだけの知識も入っていてこそ得られる体感だったりもする。
表面的なモノというのも、必要なのだ。
うん。
やっぱり、すべては尊いね。