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地域芸術祭で夢見る幻想

現在、奥能登国際芸術祭2023に参加、出品しています。過疎地で行われる地域芸術祭には、ずっと参加したかったのでうれしく、この記事ではなぜ参加したかったのか?について日記のように書いています。


地域芸術祭を訪れたことはありますか?

自分がちゃんと地域芸術祭を体験したのは第2回(2013年)の瀬戸内国際芸術祭だった。(それまで野外の芸術体験と言えば箱根彫刻の森くらいなものだったような気がする)その頃は、日本で一番大きな広告代理店(電通のことだが)で働いていて巨大な産業の中でチマチマもがく若手制作者のひとりだった。若手社員の時期はみなそうなのかも知れないが、あまりに忙しすぎて自分が取り組む業界や産業構造がほとんどすべての世界であるように錯覚しがちだ。だからこそ、時間が空けば好きな展覧会や美術館に通って別の視点を手に入れようとささやかな抵抗をしていた。仕事に忙殺され、旅行もできない自分の唯一の精神的な旅だった。そんな頃、出会ったのが地域芸術祭だった。

地域芸術祭を軽い気持ちで…いや旅行気分で行ってみれば「やっぱ田舎はいいなー」「自然サイコー」「地元の人を元気づけてるのって美しい」というような、素直に美徳の部分をとらえてその開催意図について肯定しやすい。しかし、芸術祭がどういう過程を経て開催にたどり着いたのかを想像すれば、とてつもない理解と合意、物理的問題の解決などなどがなされていることに気づく。今年、初めて地域芸術祭に作家のひとりとして参加して、その一端を垣間見た。(ただし、自分はそれでも全然苦労してない方の作家だ)瀬戸内国際芸術祭 や、越後妻有 大地の芸術祭 に足を運び出した頃は、素直に作品や景観の美しさに感動していた自分だが、次第になぜこれをやっているのかに興味が湧いてきた。その理由を経済的に最も単純に処理すれば「地域おこし」(つまり地域にお金が落ちる)ということだ。ただ、それじゃ「芸術」じゃなくてもいい?やはり、芸術である理由がほしい。それはなんなのだろう?

アナ・ラウラ・アラエズ 「太古の響き」(奥能登国際芸術祭2023)

自分はそこそこ長く広告業界にいるからなのか、資本主義の仕組みに興味があって、この仕組みがこのあとどうなるのかに興味がある。もちろん自分がこの仕組みのうまみを享受している自覚もある。でも、やっぱり1日の半分くらいは「これでいいのだろうか?」と考えてしまう。(かなり意味のない時間なのかもしれない)

チェーン店とコミュニティの破壊

もう10年ほどの間、自分は仲間とともに「のらもじ発見プロジェクト」という町中を歩いて、看板の文字を探す活動をしている。3文字とか4文字の看板の限られた文字から自分たちの想像で50音を復元(捏造?)し、フォントデータとしてアーカイブし続けている。始めは単に古い看板や書体がおもしろくてやっていただけだったが、長く続けているうちに、寂れゆく町の変化の後ろで何が起きているのか?ということに意識が向くようになった。

陶器 やまぐち とそこから制作した書体(奥能登国際芸術祭2023)

それは資本主義という弱肉強食のルールに従って進む街の配置転換だ。古くからの八百屋やお肉屋さんはスーパーマーケットとコンビニに、電気屋や雑貨屋はビックカメラやホームセンターに、商店街はイオンモールに置き換えられていく。(そしてさらには amazon にさえシェアを奪われている昨今)小さな商店の跡取りたちは、大都市に仕事を求め、どんどん地元を出ていく。もちろんそのほうが経済的に未来は明るいし、自分の人生を自由に決められる力を手に入れられるからだ。そうして、店主もお客さんも顔なじみだった町は解体され、後には企業ロゴという名のアイコンで埋め尽くされた景色が残る。そんな感じで資本主義は土着のコミュニティをことごとく破壊していった。その破壊の焼け野原に、かろうじて残った「のらもじ」を今日も集めている。

エレガントストア さこん(奥能登国際芸術祭2023)

シャッターのしまった商店街を歩いていると「やっぱ商店街はにぎやかなほうがいいよな〜」「人が来たらいいのにな〜」という言葉をついついつぶやいてしまうが、のどが渇いてお茶を買おうとなればシャッターが閉まりかけた個人商店にはいかず、コンビニに入る自分がいる。コンビニは期待を裏切らない。そして、そんなつぶやきは、きれいごと…というか理想でしかないと気づく。(昔はよかったね、と同じ意味だ)安くて便利なほうを選ぶ自分は、やはり資本主義の世界に住んでいて、しかも広告代理店で働く自分は、地域の個人商店を破壊する大企業を進出を全力で助けるパートナーだ。

ホワイトキューブとオフィスビル

美術館の壁はだいたい白い。1976年にこれを美術界では「ホワイトキューブ」と呼ぶことにしたらしい。文字通り白い箱。白い箱の中に、あらゆる作品が展示され、収まるというシステムだ。ホワイトキューブの定着によって、絵画は額縁を、彫刻は台座を必要としなくなった、と誰かが言っていた。つまりホワイトキューブそれ自体が額縁の役割をする。ホワイトキューブに、わざとメガネを落として、そのメガネが作品だと思わせた実験を思い出す。

このホワイトキューブシステム、西洋での初の美術館の設立だったり、そこで飾る絵多すぎ問題だったり、ナチスドイツの白を導入だったり、最終的にはMOMAの戦略だったり、いろんな理由があって決まっていったそうだけど、現時点で「白い箱」が現代美術を見るためのグローバル標準装備であることは間違いなさそうだ。

ホワイトキューブが生まれた経緯をひもといた記事

その一方で大都市には、また別の最適化、標準化された空間が広がる。タイとかインドネシアのショッピングモールを歩くVログのYouTube動画を見たけど、日本のイオンモールや、ららぽーとと、ほぼ同じ見た目だった。オフィスに見れば、新しいビルは大体ガラス張りの鉄骨で、内部の執務空間もだいたい同じ(企業ごとの差はあるが)だ。わかりやすく、グローバル資本主義の効率化のエンジンによって最適にデザインされているように思える。

蛇足かもだが、個人的にこの現象は東アジアや新興国に顕著なのかなと思う。(欧州のような歴史ある街は文化的にも戦略的にも歴史ある空間を守っている)東京に関して言えば、やはり戦争による爆撃で一度リセットされたことが大きいのかもしれない。

MY CITY YOUR CITY series

奥能登国際芸術祭総合ディレクター北川フラムさんの講義では、この美術館やギャラリーのホワイトキューブと、産業化された都市空間のオフィスビルに共通項を見出していた。都市空間にはオフィスビルや​​モールがグローバル標準装備され最適効率化されていくのであれば、ホワイトキューブが美術界の標準化なんじゃないか、という話だったと思う。世界中どの国に作品を持ち込んでも同じ環境で鑑賞できるから、作品も流通しやすいし商品化しやすいのはわかる。どちらもグローバル標準化された土着的文脈のない、画一化された空間というわけだ。

MY CITY YOUR CITY series

サイトスペシフィックな作品たち

奥能登国際芸術祭では完全なホワイトキューブはほぼ存在せず、基本的にはすでにある廃校や廃屋に作品が展示される。野外彫刻は里山、日本海を背景に景色と一体化した舞台として展開される。作家は、その場所に相応しい作品をつくることを求められる。こういうのを美術用語で「サイトスペシフィック」という。廃墟が資本主義のゲームに敗北した物件の行き着く先だという話はおもしろかった。わざわざそこに作品を置くことに、何かの必然を感じざるを得ない。

SIDE CORE「Blowin‘ In The Wind」(奥能登国際芸術祭2023)
風力発電所内に「風見鶏」を設置する作品。風の吹く方向に向かって向きを変える発電装置は巨大な風見鶏のよう。遠くから見ていたら小さかった装置が、近づくにつれ巨大だったことに驚かされる。風力発電装置の巨大な部品をベンチにして座れるようにもなっている。
弓指寛治「プレイス・ビヨンド」(奥能登国際芸術祭2023)
戦時中に珠洲から満洲へ渡った南方寳作という一人の人物の手記をもとに絵画を制作、野外の道にそって手記の文章とともに配置されている。道を進むにつれ、一人の人物の視点から戦争を追体験することができる。その人物が見たであろう珠洲の風景の中に絵画があることで、一瞬タイムスリップしたかのような錯覚をした。すごい作品だと思う。

過疎地の芸術祭

たくさんの芸術祭がある中で、北川フラムさんが総合ディレクターになっている地域芸術祭と、他の地域芸術祭の一番の視点の違いは、「里」対「都市」だと認識している。日本古来からある土着のコミュニティに押し寄せるグローバルな資本主義の波。「里山」「島(里海)」に対する「大都市」。​​資本主義によるグローバル標準化に対して、もはや消えかけた日本固有の「里」の生活の美しさを再提案する試みとして。国際芸術祭あいち や、横浜トリエンナーレ などの都市の芸術祭との一番の違いかと思う。交通の便の「べ」の字もない場所にあえて作品を設置することにこだわっている。

奥村浩之「 風と波」(奥能登国際芸術祭2023)

勝手に親近感

そんなわけで、自分たちの文字探し活動と地域芸術祭の類似性を自分勝手に見い出したところで、いつか北川フラムさんが総合ディレクターを務める芸術祭で、のらもじ発見プロジェクトをやりたいと思っていた。しかし、新潟の山奥や、瀬戸内の孤島にはまとまった商店街がない。(つまり、のらもじは微妙な田舎にある)半ばあきらめていたとき、能登半島珠洲市の飯田町という町に、のらもじのある商店街を見つけた。「ここでぜひやりたい!」と思い、商店街で制作を行う前提で企画書を提出した。

ホビー つぼの とそこから制作した書体(奥能登国際芸術祭2023)

自分たちの活動では、必ずお店の取材をしている。その取材から、現在の日本が抱える問題も肌感覚としてリアルに感じ取れる。地方の過疎化と高齢化、後継者の不足、都市集中…。単語でしか理解できていない問題を、本人から見聞きする機会は少ない。自分は作品制作の過程でかなり解像度高くそれらの現象を感じた。もちろん芸術祭に足を運んでもらえば、その一端を体験することができる。(もちろん、のらもじはいつも通りかわいいので見てほしい)

どうしようもない矛盾

結局のところ、全世界が基本的に資本主義で回っている以上、地域芸術祭すらも、その中に組み込まれていることは言うまでもない。むしろ、地域を観光資源化し経済価値を高め地域同士を競争に駆り立てることで、地域を資本主義上の商品にしているとも言える。グローバル標準化してしまった都市に対して、そのローカル独自性を商品価値とする構造になっている。

小山真徳「ボトルシップ」(奥能登国際芸術祭2013)

このことはすでに約10年前から議論なされていて、「地域アート」という書籍で十分に論じられているので、興味のある方はぜひ読んでみてほしい。

日本に芸術祭乱立し過ぎと、芸術祭そのものによる地域の疲弊、芸術的テーマ性の希薄化などなど諸問題を含めた現状把握と、それらを全体的に批評していて、とても学びになる。

標準化されたゴシックに対する、土着の文字「のらもじ」。そのかたちの独自性を「商品化」しているからこそ「かわいい」「エモい」「なつい」と注目される。全く同じ構造じゃないか…。やっと、自分たちのやっていたことに気づくのであった。

地域芸術祭にようこそ

さまざまな問題を考えるきっかけになる地域芸術祭。まだ開催中なので、ぜひ現地で体験してみてください。お待ちしています〜!

奥能登国際芸術祭2023
会期:2023年9月23日~11月12日
会場:石川県珠洲市全域
住所:石川県珠洲市飯田町13-120-1(珠洲市奥能登国際芸術祭推進室内)
公式HP:https://www.oku-noto.jp
電話番号:0768-82-7720(8:30〜17:00、土日祝は除く)
休館日:木
料金:作品鑑賞パスポート当日券 一般 3300円 / 大学生 1650円 / 小中高生 550円 / 未就学児 無料

のらもじ発見プロジェクト
Instagram / Project Site


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