りん

33歳、うつ病と診断されました。高校1年生、中学1年生、小学4年生、小学1年生、2歳児の子ども達と、旦那さんと暮らしています。

りん

33歳、うつ病と診断されました。高校1年生、中学1年生、小学4年生、小学1年生、2歳児の子ども達と、旦那さんと暮らしています。

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  • どこにでもいる人間の半生

    33歳でうつ病になったのをきっかけに、自分の半生を振り返ってみようと思いました。

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どこにでもいる人間の半生1

私は物心ついた時、父と母と3歳年上の姉と4人で暮らしていた。 両親は飲食店を経営していたが、父のギャンブル癖が大きな要因で、母は次第に夜もスナックで働くようになった。 父は家にいる事が少なかったが、ゲームが大好きで、家にいる時は大抵いつもゲームをしていた。 コンセントにつまづくと凄く機嫌が悪くなる。 そんな時は夜中でも、母の手により私と姉は車の中へ押し込まれた。 幼い私からはそれ以外では面白くて優しい父だったが、のちに聞くと母にはよく手をあげたりしていたそうだ。

    • どこにでもいる人間の半生19

      私は気分で行動が変わる。 うつ病になり少し落ち着いた当初に目指していた YouTuberの夢は今は色褪せて 今度はダイエットに熱中している。 うつ病となる前は77kgくらいだったが 気付けば97kgまで太ってしまった。 まずは健康思考に、生活のリズムを取り戻さなくては。 そう思いダイエットをはじめて早50日。 12kgほど減量できている。 私は過集中である。 力を平均的に発揮するのがとても苦手で、短期間にパワーを120%出し、その後ガス欠するのである。 この性質

      • どこにでもいる人間の半生18

        旦那と出会ってから、丸8年か、9年か。 3歳年上の旦那。 はじめは鹿児島訛りのおだやかな口調に惹かれた。 特に本気だった訳ではないし、私は子どもが3人いるし、一度結婚に失敗している。 よく周りからは、旦那を褒められる。 連れ子再婚なんて立派だなぁ、と言わんばかりの内容だ。 側から見ればそうだろう。 しかし私にだって選ぶ権利はあると言うものだ。 自分が、子どもが、幸せになる為には。 彼は長年、一つの会社で正社員として勤めていた。 デートをする時にお金が足りなければ

        • どこにでもいる人間の半生17

          私の、性別や年齢などで一括りに見られるのが堪え難いと言う性質には、そこに至る経緯があるのだと思う。 例えば、私が小学校3年生か、4年生の頃だろうか。 母が友人らとお酒を飲みながら言っていた言葉にとても傷ついたのを覚えている。 まだ子どもよ、生理がはじまったら女だわ あぁ、私は母の子ではなくなるのか。 私は生理と言うものが来ると、途端に違うものとして見られるのか。 私は子どもであったが、人と認識されていないような気持ちにもなった。 例えば、私が前の旦那と最後にヨリが

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        どこにでもいる人間の半生1

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        • どこにでもいる人間の半生
          18本

        記事

          どこにでもいる人間の半生16

          私が20歳くらいの頃、友達の定義について真剣に考えていた事があった。 私が友達だから、と思いする言動は、必ずしもイコールで帰ってはこない。 これは友達に限っての話ではない。 自分という人間と、そうでない人間、極端に言えばこの2種類の人間によって関係性というものは築かれていく。 つまりはイコールになるなどと言う事の方が稀であるのだ。 しかし、近しい人間に関して、私は自分の願望の方が勝ってしまい、その人となりは視野に入ってはいるものの、自分の価値観との相違に頭を悩ませる

          どこにでもいる人間の半生16

          どこにでもいる人間の半生15

          私がうつ病となる少し前、両親はアパートに住んでいた。 火の不始末からアパートを全焼させる火災を発生させたが、幸い怪我人は養父のみだった。 姉は絶望していた、人様に迷惑をかけてしまったと、上の階に住んでいた若い夫婦の思い出は全て灰となり、隣の母子世帯にはとても怖い思いをさせた、はたまたお年寄りの世帯…全てを想うと姉はとても心を痛めており、涙を流していた。 当の本人の母は、ことの重大さに気付かず、自分の事ばかり。 養父は火傷で皮膚移植の為入院となった。 この期間、姉は車

          どこにでもいる人間の半生15

          どこにでもいる人間の半生14

          話は遡って、私が初めに入籍した旦那との話。 彼を使って養父は薬の受け渡しをさせた。 今となっては彼の証言しかなく、証拠に乏しいが、彼はそんな養父を凄く嫌っていた。 それはそうである。 私もそれを知ったのは彼と別れる時、彼から聞いた時であった。 昔から何か養父の様子がおかしい時は度々あって、例えば実家の押し入れを片付けていた時には注射器が出て来たり、特段注射器を使用するような持病もなかったので、おかしいな、とは感じていたし、家にガサ入れが入ったと母から聞いた事もあった

          どこにでもいる人間の半生14

          どこにでもいる人間の半生13

          うつ病と診断されてから半年、お姉ちゃんがお世話になった社労士さん経由で障害年金を申請した。 姉は結局病院側と和解し多額の賠償金を貰い、障害年金を受給して旦那さんと愛犬とマイホームで幸せに暮らしている。 私もこの度、精神障害2級として申請が通った。 今は精神障害者手帳の申請中である。 ずっと休職していた化粧品会社の事務の仕事も辞めて、今は自宅で療養を続けている。 主治医に好きな事をしなさい、と言われ、姉の後押しもあり、私はハマっていたゲームのYouTube配信を始めた

          どこにでもいる人間の半生13

          どこにでもいる人間の半生12

          話は数年前に遡る。 幼馴染とは5年の間音信不通だった。 再び顔を合わせるきっかけになったのは同窓会での事だった。 行こうか迷ったが、恩師の先生も来ると言う事で友人Cと一緒に行く事にした。 この友人Cは私を県外まで迎えに来てくれ、中学生時代にはお互いに家庭環境で悩んだり、荒んでいた心を埋め合うような仲であった。 いざ同窓会の会場へ着くと、懐かしい顔ぶれに気分が高揚した。 そこには幼馴染はもちろん、友人Aや友人Bの姿もあった。 しばらくして同級生との談話を楽しみ、お

          どこにでもいる人間の半生12

          どこにでもいる人間の半生11

          相談日当日、私は緊張と不安の中にいた。 息が苦しい、胸が苦しい。 旦那が手を握ってリードしてくれた。 私はずっとうつむいて連れられるままに歩いた。 しばらく歩くと相談センターに着いたようで、受付の方と旦那がやりとりをしているのが聞こえた。 案内されるがままに部屋へ入ると、テーブルを挟んだ向かいに精神科医であろう先生、左には電話で対応して下さった方、右には臨床心理士さん、そして私の隣に旦那、と言うように並んでいた。 着席し、聞かれるがままに話が始まる。 否定されたら

          どこにでもいる人間の半生11

          どこにでもいる人間の半生10

          しばらくして、このままではいけないと市の相談窓口へ電話をした。 自らダイヤルをし、話をするにはとても勇気が必要で、しかし現状を打破しなければ、どうにかならないか、と藁にもすがる思いで電話をした。 窓口の方は優しくて、ゆっくりとしか話せない私の声に耳を傾けてくれた。 実は、過去、旦那と知り合って少しした頃だろうか。 幼馴染と仲違いをした。 私はその日、次男の1歳の誕生日を家族で祝う為に準備をしていた。 すると、今日友人A、友人B、幼馴染で宅飲みをするんだけれど、りんは

          どこにでもいる人間の半生10

          どこにでもいる人間の半生9

          私がうつ病と診断されるに至ったきっかけは些細な事だった。 とある月、保育園に白ごはんを持って行けない事が何度かあった。 先生に頭を下げ、代わりの米0.5合を後日保育園に手渡す。 いつもならそれで良しとされていた範囲の事だった。 私は自分が万能ではないと思わせられる体験を痛いほどしてきた。 円滑に毎日をこなすには優先順位があったのだ。 どこかに迷惑をかけてでも、物事には優先順位をつけて処理をしていかねば到底回らない生活を私は選び続けて生きてきたのだ。 自業自得、しかし

          どこにでもいる人間の半生9

          どこにでもいる人間の半生8

          長女が不登校になったのは中学校2年生に上がり、GWが明けてからだ。 パッタリ行かなくなってしまった。 はじめは理由を聞いても渋って話してくれなかったが、次第にゆっくり口を開いてくれた。 苦手な子が同じクラスになった。 警戒していたけれど、悪口や陰口を言われるようになった。 それを聞いて私はなんともやるせなかった。 長女は幼い頃から、例えば体型がぽっちゃりしている事で保育園の頃は悪口を言われた。 小学校でも何度か似たような事があった。 その度に私は学校や相手方の親

          どこにでもいる人間の半生8

          どこにでもいる人間の半生7

          四男を出産後、初めてマタニティブルーになった。 入院中は毎夜のように涙が出るのだ。 理由はよくわからない、漠然とした不安感。 そして、家に置いている子ども達を思うとまた自分が情けなくて仕方がなかった。 もう5人目と言う事もあり、助産師さんは私に母乳の指導などを丁寧にしてくれなかった。 私は家事も育児も仕事も、何一つ自信はない。 それはまさに、できて当たり前でしょう? と言われている気がして、更に私は出来ない、と言う事を浮き彫りにされた気持ちであった。 自分の中には、

          どこにでもいる人間の半生7

          どこにでもいる人間の半生6

          退院後は私たち家族の住む平屋で、半年ほど姉夫婦と同居をした。 姉は懸命にリハビリに励み生きてくれた。 義理兄は姉を懸命に支え続けてくれた。 旦那や子ども達もまたそこに自然と加わってくれたのは、当たり前に思っていたが、感謝しなければならない。 姉は、生きる希望が尽きかけていた。 そんな中、当時生後半年くらいだっただろうか、三男の存在が輝いて見えたと言っていた。 なんて生気に満ち溢れているのかと。 生活を省みずに何人も子どもを産む事に理解が出来なかったけれど、あなたはこ

          どこにでもいる人間の半生6

          どこにでもいる人間の半生5

          しばらくして、この人の子どもを産んであげたい、と言う思いが芽生えた。 もう既に3人も子宝に恵まれている私には、家計を見てもそんな余裕はないことは明らかではあった。 しかし、初婚の旦那にも、一からの育児を経験する機会を与えてあげたかった。 それが旦那の養子となった私の3人の子ども達の為にもなるのではないだろうか、血の繋がりはないが、父として、まさに血の繋がりのある子を一から育てる感動や体験が、彼の糧とならないだろうか。 それがひいては子ども達の生育環境に良好に作用しない

          どこにでもいる人間の半生5