弱いことは悪くないし、そのままでいい。子どもが弱い人と一緒に暮らすこと。
(本日は無料記事です)
先日、古い友人に会う機会がありました。そこで私が保育士としてどんな仕事をしているか、子どもたちとどういうやりとりをしているか、話になりました。
幼稚園の正規の先生のように何かを子どもに教えるわけでもないし、子どもと一緒に遊ぶ要員としてウロウロしているだけで、役に立ってない、ということを、私は友人に話していました。失敗ばかり…というか、遊ぶことにしたって、そもそも年齢的にできないことが多く、でもまぁ周りに助けられて、働いているという話をしていました。「子どもって、こんなおばあさんと遊びたいと思ってくれるんだから申し訳ないような気持ちになっちゃう…健気というか、子どもの懐の広い優しさとか…感じるのよね…」と話す私に、彼女は「すごいじゃん、役に立ってるよ。その関係はすばらしいね」と興奮気味に話してくれました。
「子どもたちはさ、りんこと一緒に過ごすことで、自然と弱い人ってこんな風なんだって実際に知る訳でしょ。自分が当たり前にできることができない人もいるって」
私はそこまで考えていた訳じゃなくて、巣の自分に近い状態でいようとしたら、結果としてそうなっただけなんですが、人と人が一緒に過ごす・何かをするって本来そういうことかもしれない…、と彼女の言葉であらためて気が付きました。
若い先生方は体力もあるだろうし、子どもが求めれば、特別に苦労なく体を使って遊んでくれます。子どもはそれが当たり前だと思っているかもしれない。だけど、私に”サッカーしよう”といったら”腰が痛いから走れないの”、とか言われちゃう(笑)。そこで子どもは考えるんです。あれ?こういう人もいるのかって。じゃあ、どうしたらいいかな。そうだ!良いこと思いついた!先生はここに立ってボールを蹴るだけで良いから。僕が全部ボールを取りに行くからって。そんな展開になるのです。こういう提案が子どもから出るときは、わーって感動します。私は素直に「ありがとう」と言って彼らの提案を受け入れて一緒に遊びに混ぜてもらいます。
どちらか一方が無理したり、まして両方無理していたら、その関係は持続が難しい。巣のままでいる、それはもちろんそれぞれに違っているということで、じゃあその違うままで一体どうやったら一緒に快適に過ごせるか、一緒に何かをつくれるか、そういういうことを考えることが大切なんだと思うんです。
友人は、私が話す子どもたちの姿にいたく心を動かされたようでした。子どもの素晴らしさが私の弱さによって引き出されたのなら、私がそこにいる意味もあるかもしれないと思えて、私は私の弱さが誇らしく思えました。友人のおかげで、巣のままの私でも、誰かの役に立っているかもしれない…と思えて、嬉しく思いました。
もしかして、子どもも私も社会の中では弱者になるのかもしれません。私は年齢の割に地位も名誉もなく、ただの体力のない中年保育士です。子どもたちの目から見ても、私があまり偉い人ではないことが分かると思います。でも、子どもたちはそんな私を慕って助けてくれます。でもというより、だから、なのかもしれません。私が子どもを助けることもあります。お互い助け合っている感じです(と私は勝手に思っている…子どもから見たら違うかも…)
一緒にいると楽しい。だから一緒にいたい。でもお互い欠けている部分がある。でも助けてもらえる部分もある。時にはちょっと嫌なこともある。でもまた会いたい。そんな人と一緒にいるためにお互いにほんの少しずつ考える。一緒にいるためにどうしたらいいか。
私はこのさりげない感じが心地よいので、きっと子どもたちも心地よいのでは?と信じて、この関係が続くよう、あんまり偉くならないように努力しようと思っています。
↓こちらは、日頃私がどんな感じで子どもに助けられているか…そんなことを書いた記事です。
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