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自分が幼い時からかつて本当に他人に理解されたことがあったろうか? ~ 映像の中の「わかってもらえない地獄」
私が遭遇した、とんでもない人たち
この世に生きていると、時おり、「とんでもない人」に出会ってしまうものです。たとえば、私に起きた身近な例を挙げると;
中学生時代、夕暮れ時の塾からの帰り道、足早に歩く私の横にスーッと車が近づいてきて、運転ドア越しに「親戚の者やけど、家まで送ってゆくよ」と小声で言われましたが、無視してそのまま逃げるように走り続けました。
学生時代、何度か貸した金をそれとなく催促しても全く返さない友人とは、とうとう絶交しました。
会社時代、市内平地の大きな駐車場の料金所で、前の車がなぜか開閉バーの前で停車したままで、降りてきた男が私に、「バーが壊れて開かないようなのでこのまま突きってしまいませんか」と、意味不明で乱暴なことを口にしました。( 私は、そんな非常識な誘いには乗らず、管理会社に電話してあげましたが・・)
以上は日常の小さな例でしたが、なぜか、この世には常識では理解できない言動をする人たちがいます。そんな彼らを理解してあげる必要はあるのでしょうか?
容認しがたい言動をする人間の心の奥の深い闇を覗き込んでも何の得も学びも幸せもないのはわかりきっているはずなのですが、やはりなぜか、そんな危ない、とんでもない人間の深淵を、私たちはついつい好奇心からか、覗き込んでしまうのです・・・
以下に、そのような人間たちを描いた映像作品をいくつか紹介します:
「逃げる女」~ 暴力的なまでに哀しい女性:仲里依紗
2016年にNHKで放映していた土曜ドラマ「逃げる女」は、どんどんその物語世界に引き込まれてゆきました。
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あらすじ:
同僚のうその証言で園児殺害の罪を着せられ8年間も刑務所に入っていた児童養護施設の女性職員(大学院卒のエリート)は、無罪放免で出所して、
事件に関わった当時の関係者たちを訪ね歩きますが、世間の冷たい視線と深い疎外感に打ちのめされます。
そんな中、正体不明の若い女性と出会い、そこから物語は、謎の連続殺人事件と追いかける刑事をからませた「おんな二人の逃避行」となります。
「変な歩き方」をする女優
端正な外見でありながら、主人公の苦しみや張りつめた思いをしっかりと繊細に演じ切った水野美紀という女優の好演が印象的ですが、それに加えてこのドラマを俄然おもしろくさせたのは、奇妙な女を演じた仲里依紗という女優の圧倒的な存在感です。
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初めて画面に登場したとき、いかにも「はみ出し者」といった感じの、髪の毛の変な染色、だらしない恰好、くせのある妙なしゃべり方に不快感をつのらせつつ気になる存在になっていきます。
そして、動いている姿を見ていると、その歩き方が変なのに気づきました。短パンのせいで腰から下の動きがよくわかるのですが、街頭で普通に目にするような成人女性の歩き方とは違って、どこか幼児的で、迷いと不安のあるような歩き方に見えるのです。
これは、女優が意図して演じていたのかもしれませんが、私はこの「歩き方」にこそ、親の虐待という過酷な生い立ちゆえに破滅的にしか生きれなくなった、この女性の「本質」が表われていたように思うのです。
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ドラマでは、本来なら出会うはずもない対照的な女性ふたりの激しくも切ない関係を通して、人の孤独と寂しさ、共感と無理解といった情念をまるで
あぶり絵のように浮き立たせています。
余談1:
その後も、仲里依紗さんは、さまざまな趣向のドラマに出演して活躍されていますが、やはり、この「逃げる女」での突出した異質の存在感に勝る役どころには出会っておられないようです。ひょっとしたらこれは、生涯に一度だけ巡ってくる「運命の役」であったかもしれません。
余談2:
そこで思い起こすのが、トリュフォー監督のフランス映画「アデルの恋の物語」で、好きになった男をストーカーのように付け回して精神異常者になってしまう役を演じた女優イザベル・アジャニーです。何かが憑依したような演技で一躍世界の注目を浴び、多くの映画に主演しましたが、私の見た限りでは、やはり、「アデル」の印象が一番強烈です。
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ついに狂ってしまったイザベル・アジャニー
「復讐するは我にあり」~ 悪に憑依された男:緒形拳
男女関係のもつれから錯乱するヒロインといった、よくある話ではなく、暴力的で哀しい姿をさらけ出して生きるしかなかった女性を全身で演じ切った
仲里依紗のような女優を他に見たことがありません。が、人間の業とも言うべき「暴力性」を鬼気迫る演技で見せた男優ならば、緒形拳と三國連太郎が共演した映画をすぐに思い起こします。
昭和の実在した極悪犯罪者を題材に描かれた今村昌平監督の「復讐するは我にあり」(原作は佐木隆三)で、緒形拳は「悪に憑依された男」を見事に演じます。
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彼が累犯者になった原因のひとつに、三國連太郎演じる、熱心なクリスチャンである父親との根深い確執があったようで、最後、捕まった息子と取調室で面会するシーンは、ふたりの男優が感情を暴発させる苛烈な演技合戦を繰りひろげて、見ていて恐ろしかったです。
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余談3:
緒形拳さんは、長い間、主役級の役を演じてこられましたが、その役どころは多種多彩でした。71歳の若さで惜しくも亡くなられましたが、その晩年期に演じた役どころは、若いころの押しやアクの強さがすっかり取れて、実に飄々としてボケ気味の味わい深さを醸し出されていました。
NHKドラマ「帽子」は、その典型とも言うべき名作だったと思います。
( 私は、緒形拳という俳優の大ファンでした )
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「飢餓海峡」~ 業の深い人間:三國連太郎
三國連太郎といえば、もうひとつ、忘れられない映画があります。戦後の昭和映画史に残る傑作、内田吐夢監督「飢餓海峡」です。
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戦後の引揚者で貧しい無学の男が、行きがかり上やむをえず犯した強盗殺人で得た大金で事業を興して成功、今は名前を変えて「地域の名士」におさまっていましたが、ある日、隠していた過去と関わりのある女性が現れ・・・
その女性を殺害するシーンを、恐ろしい集中力と凄みで三國連太郎が演じています。
緒方拳は役者根性のあるスターなので、悪党だけでなくわりと器用にどんな役でも演じていますが、三國連太郎という役者は、「業の深い人間」そのもののような存在感なので、役を演じるというより、彼がその役を取り込んでしまう感じです。
さて、会いに来た女性はただ、「もう一度お会いして昔お世話になったお礼を言いたい。」、その気持ちだけを励みに生きてきた女性でした。しかし男は、そんな気持ちに応える心の余裕などなく、封印していた忌まわしい過去を今さら掘り出されたくない、と我を忘れたように、ついつい女性を殺めてしまうのです・・・。
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以上3つの作品から言えることは、犯罪を描いたドラマというものは、私たち人間というものが、社会人としての常識や善良さの裏に邪悪さや不条理さも潜ませている場合もある、ということを最も直接に色濃く抉り出してみせてくれます。
「犯罪被害者白書」と「知り合い地獄」
ところで、警視庁が毎年公表の「犯罪被害者白書」によると、殺された被害者と加害者の関係は、加害者はまず親族、次に友人や知人の犯行の割合が多く、お互いに面識のなかった場合の犯罪件数は性犯罪を除くと全体の1割以下である、という統計報告があります。
するとやはり、私たちの生きるこの世は、多くの人にとって、「知り合い地獄」と化してしまうのでしょうか?
恨み、憎しみ、殺意がめばえる時は、一体どういう時なのでしょうか?
自分自身の日常をふりかえってみても気づくのですが、それは、相手のエゴ、非情、無理解、無関心などに接した時でしょう。
とりわけ、愛情の裏返しでもある憎しみは、自分が理解してもらえない、受け入れてもらえない苦しみから最も生じやすいように思えます。
そうであるならば、そこにどんな「救済」こそ望まれるのでしょうか?
この世には3つの地獄があるのでは・・?
この世で最大の不幸は、戦争や貧困などではありません。人から見放され、「自分は誰からも必要とされていない」と感じる事なのです。
これは、マザーテレサの有名な言葉です。人によっては、この世が「知り合い地獄」であるかもしれませんが、「誰からも必要とされない地獄」よりはまだましかもしれません。まだ人と関わっているからです。
しかし、私たちの日常生活の中で実際に一番起こりやすい「地獄」が、実はもう一つある、と思うのです。
3つめの地獄、それは、「わかってもらえない地獄」ではないでしょうか?
私は、この問題には、いつもうまくいくわけではありませんが、次のような言葉の真意をよく味わうことで、萎えがちな自分の感情にバランスを与えるように努めています;
私:ひとは本当に他人を理解できるのでしょうか?
霜山 徳爾氏 :我われが他の人をどこまで理解し得るだろうか、という問いを逆にして、自分が幼い時からかつて本当に他人に理解されたことがあったろうか、と自問してみるとき、おのずから明らかになるであろう。
心理学者である故霜山徳爾氏のこの言葉をどう受け取るかは人によって違うかもしれませんが、私にとってこの言葉は、ひとつの諦念であり、そして希望でもあるのです。
確かに、心の奥をちゃんと覗けば、親、友人、先生など誰であれ、自分のことを本当にわかってもらった、という経験は、ほとんどの人があまりないのではないでしょうか。
人から理解してもらいたい、認めてもらいたい、・・・と思いがちですが、私自身を振り返れば、他人を心から理解しようとしてないし、認めようとも
していない自分がいることも事実です。
では、どうすればいいのでしょうか?
最初の問いに戻ります;
わかってもらえない地獄の中で、ひとを理解する必要などあるのですか ?
いや、理解ではなく、「受け容れる」ことが必要なのではと思います。
惨めな自分も卑怯な他人も、許すではなく、受け容れること、それを実践することはとても困難なことですが、人間が取り得る究極の態度ではなかろうか、と思うのです。
( ひとは自分にできないことほど雄弁に主張しがちです・・・)