孤独なときに考えてごらん、今の自分がカッコいいかどうか ~ ダンサー田中泯という実在
誰にも見られていないときにこそ、本当の自分がいるんだ。孤独なときに考えてごらん、今の自分がカッコいいかどうか?
山田洋次監督 ~ 忘れられた人々へのまなざし
山田監督といえば、やはり「男はつらいよ」シリーズですが、その中でも特異な作風であった「男はつらいよ望郷篇」、それに「家族」・「故郷」などの映画を見ても共通して感じるのは、戦後日本の高度経済成長に乗り遅れて「忘れられてしまった人々」への真摯で共感に満ちたやさしいまなざしだったのではないでしょうか。
その後も、「息子」や「学校」などの作品、最近では「東京家族」など、社会的に弱い立場や報われない人々への強い関心と慈愛に満ちた思いを込めた秀作を創り続けておられます。
そういう彼が取り組んだ時代劇に「たそがれ清兵衛」( 2002年制作 )があります。徹底した時代考証に基づく当時の生活感の再現や自然な採光に徹し、人工的で派手な演出は排除して、主人公である極貧の下級武士の日常と運命を丹念に描き、当時の日本アカデミー賞最多受賞、アメリカ・アカデミー賞外国語映画部門にもノミネートされました。
ところで、・・
肝心の斬り合いシーンでは、真田弘之の好演により極めてリアルな迫力がありましたが、斬られる武士を演じた、映画出演初めての田中泯さんの印象が、「一体この男は何者?」と当時の映画業界では話題になったようです。ただ、私が初めてこの映画を見たときには、ひたすら不気味な役者だな、・・程度の印象しかなく、名前の確認などしませんでした。
そのような私が、「田中泯」という特有の存在を初めて強く印象付けられたのは、以下に述べるTVドラマだったのです;
ドラマ「妻は、くノ一」で、ただ者ならぬ気配の藩主役
NHK総合で2013年に放送していた番組「妻は、くノ一」( 後にpart2も制作 )は、途中から見始めたのですが、予想外に面白かったです。
いいドラマというのは、まず脚本と配役、次に演出と音楽が味方すれば、必ずいい出来になると思います。このドラマもそれらの要素がありました。
映像にも切れと余韻があり、画面の切り替わりに入る音楽も効果的で、ラストで切々と歌い上げられる主題歌( 山崎まさよし:アルタイルの涙 )には聞き惚れました。
主役のふたり( 特に女忍者役の瀧本美織の好演! )が瑞々しい若さで好感を持てたことはもちろんですが、脇を固める芸達者な役者たち(特に梶原善!)の存在感も番組を盛り上げ、引き締めていました。
そんな中でも、とりわけ異質な空気を漂わせていたのが、藩主の松浦静山を演じた田中泯だったのです。剣術の達人であり学問にも造詣の深い役どころを悠々と演じきったその見事な立ち居振る舞いと視線の動きに、ただ者ならぬ気配を感じたのです。
もともとは1960年代から国内外で活躍する著名な前衛舞踊家(氏自ら言うところの「ダンサー」)として彼の名前を耳にすることはあっても、実際にそのパフォーマンスを目にすることはなく、顔認識もできませんでした。
「たそがれ清兵衛」以後、映画とTVドラマによく出演されるようになったわけですが、私が見た中で特に記憶に残る役は、映画「るろうに剣心」の剣術の師範やTVドラマ「長閑の庭」での大学教授などでしょう。
ちなみに、以下に紹介する写真、1970年代、前衛音楽家のデレク・ベイリー、ミルフォード・グレイヴスと共演した時の一枚のようです。この頃の田中氏(1945年生れ)はまだまだ30代の若さ、狂暴な野心と危険な野生に満ち満ちた面構えと肉体の醸し出す威圧感の凄さ!
田中泯の別の「肉声」に触れる
以上に述べたような田中氏とは全く別の「肉声」に触れたのは、学校でのいじめ問題が再び社会的に注目を浴びた2011年「大津いじめ自殺事件」に関して、田中氏が当時の朝日新聞「いじめを見ている君へ」という連載に寄せたコメントを通してでした。
では、その新聞記事「いじめを見ている君へ」の一部を編集引用します;
最初に断っておくが、いじめは子どもの責任じゃない。大人の責任だ。学校も警察も、自分に都合のいいことばかり言う。
君は、大人の「見せかけの本音」を見抜いているだろう。言い訳で身の回りを固めた大人たちの姿をカッコ悪いと思うだろう。
でもね、大人だって、かつては子どもだったんだ。君だって大人になるんだ。ある日突然、大人になるわけじゃない。今の君の生き方が大人の君をつくるんだ。
今、君がいじめを見て見ぬふりをしているなら、大人になった君もきっと傍観者だ。それでいいのか。
僕も小学校時代にいじめられた。背が低く、どもりもあったからな。でも逃げ場があった。川や森に逃げ、独りで過ごした。
協調性ばかり求められる世の中だけど、僕は孤独が大事だと思う。誰にも見られていないときにこそ、本当の自分がいるんだ。
君は親や先生、友達の前ではかっこよくふるまうだろう。でも、周囲に知人がいない孤独なときにこそ、カッコよく生きてほしい。
僕が思う「カッコいい」の意味は、自分の生きている理由を自分で考え、自分の意思で行動できることだ。
孤独なときに考えてごらん。今の自分がカッコいいかどうか。
どんな大人になりたいのか。いじめられている友だちの顔も思い浮かべてごらん。
そこで考えた結論が、「大人の君」を決定づけるかもしれない。
以上のような、田中泯氏の言葉は、いじめの環境の中にいる十代の子どもたちに語りかけられていますが、中高年と言われる時期を迎えた今の私にも、
なぜか強く訴えるものがあります。
将来「どんな大人になるか」ではなく、現在「どんな人間になってしまったのだろう」と、自責や後悔、無念や諦念の思いがよぎるのです。
しかし、田中氏の言葉は、励ましでもあります。
誰にも見られていないときにこそ、本当の自分がいるんだ。
孤独なときに考えてごらん、今の自分がカッコいいかどうか?
孤独なときにこそカッコよく生きてほしい。
私は、氏のこの言葉がぐっと今でも胸に響きます。これは、決して忘れてはいけない、自分への「戒め」と思えるのです、そして、とても励まされる呪文であると同時に、氏の生き方がそう言わしめた、素晴らしい「掛け声」でもある、と、私は受け取っているのです。
できれば、そうありたい、という願望でもあるのです・・。