「水晶の夜」とパレスチナ支援デモ禁止
11月10日は毎年さまざまな建物の玄関前の歩道に埋め込まれた小さな金属プレートにキャンドルや花が添えられる日だ。
わたしにとっては、ドイツ・ハンブルクに来てはじめての年、金属プレートの存在そのものに気づいた日でもある。
1938年11月9日の夜から10日にかけて、ドイツ各地でユダヤ人居住地区のアパートやシナゴクが襲撃・放火された。10㎝四方しかない数々のプレートに刻まれているのは、かつては「水晶の夜(Kristallnacht)」今では「11月ポグロム(pogrom)」と呼ばれるこの日に、金属板の前に立つ建物から殺害されたり拘束されたりした人たちの名前や生没年などだ。
ポグロムは、自然発生的に起きたともナチスの指示があったとも言われるが、ナチスやヒトラーがこれを黙認したことは間違いない。他の街でポグロムが行われたのは9日夜から未明にかけてだったが、ハンブルクでは1日遅れ、10日の午後から夜にかけてとなった。
ハンブルクの街は東西に広がるエルベ川と南北に広がるアルスター湖という2つの水の線によって街が大きく分かれている。今日はたまたま湖の逆側に行く用事があったのだが、その辺りにはキャンドルも花も見当たらない。
なぜだろうと思って調べると、わたしが住んでいる地域はハンブルクの中でもユダヤ人がもっとも多い場所だったことが分った。当初、ハンブルクのユダヤ人街はノイシュタット(ドイツ語で「新しい街」の意)に限られていた。ところが、19世紀にはいる頃からノイシュタットが手狭になり、ユダヤ人街は北側に拡張を始めた。1933年時点にはこの辺りを中心にハンブクだけで2万人のユダヤ人がいた。しかし、水晶の夜で8千人が拘束され、その後、ホロコースト(ナチスによる大量虐殺)を経て、現在のハンブルクのユダヤ人口は2500人となっている。
うちの近所には、今でも再建されたユダヤ人学校やシナゴグ(ユダヤ教の教会)、ラビ(ユダヤ教の司教)の宿舎、ユダヤ系の病院などがある。ユダヤ人学校の前の広場にも当時、北ドイツで最大のシナゴグがあったが、ポグロムで破壊された。
ホロコーストの重荷を負ったドイツの街には、イスラエルでの戦争が始まった今「イスラエルと共に」という政府広告がそこら中に掲示されている。ドイツ政府は当初、人道回廊の設置にすら「イスラエルの主権を脅かす恐れがある」などとして及び腰で、明確な親イスラエルの姿勢を示してきた。
ところが、ウクライナ戦争と違うのは、イスラエルの国旗を窓に掲げ、反戦デモに参加してイスラエル支持を表明する市民が少ないことだ。
現在ドイツでは、イスラエルの意向に反するデモ、親パレスチナに相当するデモはすべて「アンチ・セミティズム(ユダヤ人差別)」と見なされ、禁止されている。つまり、反戦デモができない。
メディアも、ウクライナの方はロシアの侵攻と同時に「ウクライナ戦争」とする報じたのに、ガザの方は1ヶ月以上もの間「テロリズムとの戦い」と報じ続けた。デモの禁止については、さすがに「言論の自由やデモの自由の侵害」「動物愛護団体の『動物を殺すな』はOKで、『子どもを殺すな』はなぜユダヤ人差別なのか?」といった声も取り上げていたが、あくまでもユダヤ人やユダヤ施設を標的とした犯罪(それももちろん問題なのだが)やイスラエル支援デモの妨害、それらへの政府の対応に関する報道がメインだ。
11月9日に行われた国連人権理事会の定期審査でドイツは、イスラエルの支持は明確にする一方、平和的なものも含めすべての親パレスチナデモを制限する姿勢に対しイスラム各国から強い批判が出た。ドイツのメディアではこれを「イランやカタールなど人権意識の低い国から批判が上がった」などと報じた。
真珠湾攻撃をしかけたのは日本だからといって原爆投下が正当化されることはないように、今のガザの惨状を理由にポグロムやホロコーストが正当化されることはない。
だから、わたしは83年前の今日ドイツで失われた多くのユダヤ人たちの命に、心からの黙祷をささげたいと思う。
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