見出し画像

渚の生と死

ドイツに暮らしはじめていちばん驚いたのは夏の日が長いことです。

シェークスピアの戯曲「真夏の夜の夢」は夏至祭の日に妖精パックが活躍する物語。夏至に向けて夜がもっと浅く短くなり、人間たちが寝るのも惜しんで屋外を楽しみはじめると、ヨーロッパは妖精が本当に飛びかっているかようなそわそわした雰囲気に包まれます。この空気感は梅雨の最中で夏至を迎える東京では想像できなかったことです。
 
ドイツより北にあって、長い昼の夏と長い夜の冬を持つ北欧では、夏至祭はクリスマスと並ぶ大きなお祭りです。キリスト教と結びつき、現在では「聖ヨハネの日(Sankt Hans)」と呼ばれていますが、夏至祭の起源は太陽や樹木を信仰するアミニズム色の濃いケルト文化にあります。

わたしの暮らすハンブルクでは夏至祭を祝う伝統はありません。一方、すぐお隣のデンマークでは大きな火を焚いて魔女の人形を燃やして派手に祝うと聞き、以前から行ってみたいと思っていました。パンデミックで2年連続の中止になる中、夏至祭の存在はわたしの中でますます膨らんでいき、最近では、死ぬまでに一度は行きたいお祭りといったほどになっていました。
 
ハンブルクからデンマークの国境までは2時間半。デンマーク側でも国境近くはドイツに似ているだろうと思ってる人も多いかもしれません。しかし、国境を超えるとやはり文化も人も変わります。飲み込まれそうなほどの青空の広がる夏至祭の日、今年はついに念願がかなって、国境から15分ほどのところにあるデンマークの村に行くことになりました。
 
ところが――。点火時間を1時間誤って教えられ、会場に到着すると、焚火はもう終わっていました。

シャベルで土をかけて火を消していたおじさまは、「仕方がないね、来年またおいで。ビールやケーキならまだ今でも買えるよ」と優しく言ってくれましたが、きっともう一生夏至祭の焚火を見ることはないだろう思うと本気で泣きたくなってきました。

2年も待って、無理して休みも取って来たのに!

すでに宴のあと…

そんなわたしにはお構いなくおじさまは、「あの黒く焦げているところまで火が広がって、机や椅子にも燃え移りそうだったから慌ててみんなで移動させたんだ」と、何だか嬉しそうです。

「真夜中まで大きな火を囲んで飲んだり踊ったりしているイメージでいたんですが、違うんですね」

わたしが言うと、「6時から教区の牧師の挨拶が始まって、それが終わったら点火。火がついたら一気に燃え上がって30分くらいで終わってしまうから、もっと早くこないと」と、言われてしまいました。
 
考えてみれば、夏至の前後はなかなか日が沈まないのですから、日本のキャンプファイヤーのように夕闇が迫る中で火がともり、とっぷり暗くなるまで火を囲むといった光景があるわけがありません。焚火の会場も「夏至祭」という言葉からイメージする幻想的なものではなく、晴れた日曜日の昼間にやる学校の運動会や町内会のイベントといった感じで、こちらも夜が来ないことを考えれば、当たり前のことでした。
 
意気消沈して帰路につきかけた時、ふと車を海の方に逆走させてみることにしました。

いつかデンマーク人と結婚しているドイツ人の友人に「夏至祭を見たことがある?焚火はどこに行けば見れるの?」と尋ねると、「あの人たち(デンマーク人のこと)は夏至祭にはおかしいくらいの執着があって、どこの野原でも海岸でも火を焚くからどこに行っても見れるわよ」と、笑っていたのを思い出したからです。
 
海岸に一番近い道路をしばらく走ってみましたが、道路から海岸までは100メートルほどの草原が広がっていて海岸の様子はまったく見えません。夜9時を過ぎているというのに太陽もまだ昼間の勢いを保ったままで、幻想的どころの話でもありません。
 
引き返して帰ろうと思ったその時、草原の向こうに白い煙が上がっているのが見えました。草原の中に、海岸の方に向かっている細い砂利道があります。

ここから先は

2,143字 / 6画像

医学に関するデータやその解釈をいつも最新にアップデートしておくことを通じて命や健康を守りたい、という方に強くおススメできる定期購読マガジンです。

noteでわたしが書く記事が大体ぜんぶ読める基本のマガジンです。継続的に執筆を応援してくださる方、わたしの書いた記事を大体ぜんぶ読みたい!…

内容の詰まった記事を更新していきます。「文系女医の書いて、思うこと。【スタンダード】」とだいたい同じ内容ですが、こちらを購読して応援していただけるととてもうれしいです。

「文系女医の書いて、思うこと【プロフェッショナル】」はわたしが書くすべての記事を読みたいという方、定期購読で応援してくださる方向けです。執…

わたしの書いた記事や科学・医学のニュースのまとめを適当にセレクトしてちょこっとお届けするマガジンです。わたしがnoteに書いた記事をぜんぶ…

正しい情報発信を続けていかれるよう、購読・サポートで応援していただけると嬉しいです!