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『ゲーテはすべてを言った』を読みました
M兄へ
この度は、連句お誘いたいへんありがとうございます。されど、小生未だM兄のご心境に達しておらず、今回は見送りとさせて戴きたく御寛恕御願申上候。
小生、今期の芥川賞「ゲーテはすべてを言った」、最近読み終わりました(『文春』版で)。シェークスピアを研究する大学院生によるペダントリー横溢の小説です。
設定は、定年を迎えようとするおそらく東京にある国立大学教授一家の(結構幸せそうな一家の)話。
ちょっと大学教授の内面をおちょくっているようでもあり、真面目なようでもあるような、パロディじみた話でした。
主人公教授はドイツ文学の大御所的存在でゲーテの権威。
教授の家はわれらが仙台にも多少関連しています。
音楽について言えば、これはもうバッハ。例のグールドによるゴールトベルク変奏曲に始まって、文中のクリスマス時には、やはりバッハのクリスマス・オラトリオ、マタイも確か機中で聴いているという場面もありました。
作者の父親は牧師さんということもあるのか、主人公たちもクリスチャンで、聖書関連事項の記述もあり、西洋の教養、哲学、文学史的知識がいたるところに振りまかれ、勉強、再勉強にもなりましたわ。
小生も昨年、画家中村彝の友人の彫刻家中原悌二郎(中原は北海道時代、あのロシア語の翻訳者米川氏の友人でした)が引用しているドストエフスキーの言葉(「空想的リアリズム」に関連した項目だったか)がどこにあるのか地元の図書館から和訳全集を何回かに分けて借りてきて調べましたが、こんな簡単そうなことでも完全には解らないままとなった部分があり、その他の全集も国会図書館のデジタルで検索してみたりしました。
小生、ドストエフスキー全集はおろか、トルストイ、シェークスピア全集すら読んでいないし、持っていないのですが、分かったのは、和訳での全集というのはたいてい不完全なもので、ロシア語原典などではもっともっと膨大な全集があり、本格的な研究というのは、「ゲーテはすべてを言った」でも留学時代の主人公が現地の教授から指導されたように、単に外国語の全集を読破するだけでもダメで、作家の手書きの生の資料に触れたり、探したり、その真贋に到るまでを調べるところまでいかなければならないんだということでした。
こうなると、文学研究というのも実に大変なことですね。とうていできない。真似事すらできるかどうか。
(ただ、現代はデジタル化が待っているから、文学研究も典拠や出典や言葉の分析などの研究は革命的変化が期待できるかもしれませんね。)
なので、小説の中の出典や典拠探しの問題は、小生も似たような経験をしたばかりなので、もともとは小さな問題でも権威が揺らぐかもしれず、ジョークすれすれに主人公の焦る気持ちはよくわかりましたわ。
ゲーテの権威が、レストランにあった紅茶のタグに書いてあったゲーテ作とされる名言の典拠が、内心でははっきり分からなくて周章狼狽する話。でも、こういう専門家の周章狼狽はあちこちの分野で、もちろん美術館や美術史などの分野でも、結構あるものなんですね。大学教授やその他のプロの多くが経験しているのではないかと。だからこの小説、大学の先生方はもちろん、その他記者さんとかいろんな文章を書く方々も面白がって読むのかもしれません。「天声人語」でも、確か紹介されていましたね。
この小説、どれほど衒学的なのか、また、それにもかかわらず、嫌味とならずなぜ受賞の誉を得ているのか、現代の若者、23歳でしたかの小説とはどんなものなのか、そんなことにも興味があり、読んでみました。
審査員もみんなわれわれよりもずっと若い世代ですから、この人たちがどんなことを言っているのかにも今回興味があったので、単行本でなく『文春』版で読んでみました。
芥川賞審査員の評は、小生も概ねその通りのものかとは思いました。(Fより)