ケン ―犬が教えてくれたこと―
フォローしている方の記事で、飼い犬の病気、安楽死について書かれていて、自分も今メキシコで一人で2匹のまあまあデカい犬(大きさは関係ないが)を飼っているので、飼い犬の死について書きたいと思う。
自分の人生で犬の死に立ち会ったのは一回だけ、実家で飼ってた柴犬(♂)「ケン」の死。
16年半生きた大往生で、しかも体力も毛並みも歯も脚も体はまだまだ若々しかったケン。ただ脳が疲れて衰えてしまって、徘徊しては家の中で粗相したり、そしてある日突然倒れて、病院に連れて行ったその日から、もう立ち上がることができなくなってしまった。
その時わたしはもう実家に住んでいなかったけれど、自転車で30分くらいの距離、1月の寒空の下をぶっ飛ばして実家へ向かった。
実際、ケンはわたしにそこまでなついているわけではなかった。
柴犬自体非常に独立心の強い犬で、甘えたり、媚びたりすることはない犬種だと言われる。
まだすごく若かったときに、道路へ飛び出し車に轢かれて前足を骨折してしまったときも、動物病院に一泊した際、病院で出された水を一滴も口にしなかったとか。
柴犬は飼い主にとても忠実な犬で、飼い主の出したもの以外口にしないとも言われているくらいだ。
それくらい頑固で気高い犬なので、出会って数秒でおなかを見せたり、人の膝にべったり甘えて上目遣いする私の今の飼い犬(雑種)とはまったく異なり、彼なりに彼のペースで愛情を持ってくれていたのかもしれない。
倒れたその日、兄家族も来て全員で見守った。もって数日と獣医さんに言われたからだ。
もうケンは横になって目を開けたり閉じたりするだけだった。
次の日は日曜日で、わたしはその前日から実家に泊まっていた。
夕方、様態が一応安定していて、もしかしたらまだ一週間くらいは生きてくれるかもしれないから、今日はいったん帰ろうとしたその時だった。
横になっていたケンが突然大きく伸びをして、おしっこが一気に出た。濃い色の真っ黄色い液体だった。
誰も何も言わなかったけど、それがもう彼の最後の瞬間であることは明らかであった。異様な光景だったからだ。
そこにいた皆で取り囲んで、遠くへ行こうとしているケンに、
「ありがとうケン!」「えらいね、がんばったね!」と必死に呼びかけた。
何度も何度も、天国へ行く途中でも聞こえるように、耳元で叫んでいた。
一人(一匹)で寂しくないように。
するとその声に応えるように、大きな口を開けて
声にならない鳴き声を何度も出した。
目も開いて必死に、わたしたちになにか伝えようとしているようだった。
舌はもう乾いて白く、
だけど何度も鳴いた。
わたしたちには「ありがとう」と言っているように聞こえた。
そして、すぐ呼吸が止まって
また少し震えたりしながら、だんだん静かに動かなくなった。
それでも、みんな無我夢中に
ありがとう!って、がんばったね!
また会おうね、って名前を呼び続けた。
口と瞼を閉じてあげて、
もうケンは、二度と動かなくなった。
寝ているみたいな横顔だった。
優しい顔だった。
正直、わたしはケンが、飼い犬が亡くなることがこんなに悲しく、つらく、そして強く、美しいものだとは思っていなかった。
人間も含め、生き物の死に目を見たのは、生まれて初めてだった。
生きていたものが死んでゆくその瞬間を篤と見た。
ケンは最期まで、一生懸命生きていたし、生きたいと強く思っていたと思う。
生き物の死はこんなに強く、美しいのかと思った。
わたしはその死に深く感動していた。
あれはもう10年前の事だ。でも、今でも鮮明にあの瞬間を覚えている。
ケンがわたしに「生」を教えてくれた。死を以って生を教えてくれたのだ。
その姿は美しかった。
一生懸命生きて死んでゆく姿はこんなにも美しいのかと、
わたしはその時初めて知った。
わたしたちは安楽死を選ばなかった。
でもそれがいいとか悪いではない。
どちらにしても、今までいることが当たり前だった家族(わたしは群れと思う)を失うのだ。
それだけが事実。
ケン、わたしに生きること、死ぬことを教えてくれてありがとう。
あの経験はわたしのこの人生で、大きな、非常に大きな出来事、教えとして今でも心に刻まれている。