母の恋
「結婚している人と付き合っていた事があったのよ」そう話し始めた時、 母は60代初めだった。
「隠して付き合っているのはとても苦しかったわ」
付き合い始めた頃、母は40代だった。母が働いていたパート先での出会い。ありきたりなどこにでもある出会いだった。
その頃私は中学生だった。
そして母も父と結婚していたから、それは不倫関係ということになる。
その付き合いは熱い関係から温かい関係になるまで、母が70を過ぎるまで続いていたようだ。
どれくらい頻繁に会っていたのか、気がつきもしなかったから覚えてもいない。今みたいに頻繁に耳にするダブル不倫だとか、日常で「もしかしたら、母親が不倫をしてるかもしれないんだよね」とか、そんなことを疑ったり、考えることなんか全くなかった。
仕事を口実に会っていたのだろう。でも母が外泊をしたとか、夜遅くに帰ってきた記憶は全くない。その頃は母は電車で1時間半はかかる、自分の独り身の父親の世話もしていたから、かなり忙しかったはずだ。いつも食料品を袋に沢山買い込んで帰ってきて、バタバタと夕飯を作って、いつも家族を優先にした毎日の生活だった記憶は鮮明にある。
「もっと自分の為に時間を使えばいいのに」など当時の私は全く考えもしないで、当たり前のように母のしてくれることを受け入れて、たまに干渉し過ぎたと思ってもいた。
その人はなんでも優しく話を聞いてくれたという。
自分の夫は口数が少なかった。
いつも新聞を広げ、横ではテレビを見もしないのにつけ、(テレビは聞くものらしい)その上、別の部屋ではラジオをつけっぱなしにしておくような人だった。
何か聞いても、言っても「うん」というタイプの人だった。
その関係は父が定年になってからも続いていた。
でも父が家にいることが多くなると電話の連絡もなかなか出来なくなってしまった。その頃携帯電話を持っている人は稀な時代だった。だから連絡が取れる時に時間と日にちを決めては会い、その時に次に会う時間と日にちを決めていた。当日どちらかが来れなければ、それで終わりにしようと約束していた。
ただ会って、お互いの近況や家族のことを話したり、そんな関係になっていた。
そしてその約束は母が70歳過ぎる頃まで続いていた。 でもそれは数ヶ月に1度、そのうち1年に数回程度の約束になっていった。
母は自分が歳を重ねていくにつれて、10歳の年齢差を考えるようになった。自分が老いていく姿を見せるのが、女として辛くなっていったから。 自然に終わりにした方がいいと考えるようになっていた。
さらに歳を重ねていくと身体もどんどん自由が利かなくなり、出ていくことも億劫になり、家での自分の細々した事をする生活だけで手一杯になっていたから。
段々約束の日には行く事ができなくなり、連絡を取ろうとすることもなく静かに終わっていったようだ。
お互いに静かに引き際を弁えていたように・・・
老いていく自分を無理に若づくりする人もいるだろう。
母はお洒落な人、身なりを気にする人だったから、それも段々出来なくなっていく自分を寂しいと思っていただろう。
母はその人に会う時は女性としていたかったのだろうから。
でもその人はきっと、年老いていく母と会っても、優しく話を聞いてくれていたと思う。
自分の夫に求めても得られなかった心の温かさを、不倫という形だったけれど、得られた母を「良かった」という気持ちが持てたのは私も40歳を過ぎた頃だったけれど。
母は今でも彼を思い出すことがあるのだろうか。
きっと頭をよぎることはあるだろう。
今まで支えになってくれていた夫(父)が急に他界し、一人では不安定で外を歩くのが怖くなり、耳もかなり遠くなり会話も難しい時もある。
でも生きるエネルギーは満ち溢れている女性だ。
こんなことに負けない、という強い前向きな気持ちが常にある女性だ。
そして90歳になった今でも可愛く、綺麗な人だ。
昔、母のどんな話も優しく聞いてくれるその人は、今の母のどんな話も、変わらずに優しく聞いてくれることだろう。そして母が歩く時、優しく支えになってくれるだろう。
これは今更ながらの娘の願いだけれど・・・・
だって母はこの先もその人に会うことは2度とないだろうから・・・