通学路
駅前は商店街だったらしい形を残していて、ずいぶん前に閉店した精肉店のシャッターは開いていて、埃をかぶって時が止まったままその姿を残している。そこで買い物をする、経験していないはずの記憶を想像する。きっとソーセージやコロッケやハムカツが並んでいたに違いない。空っぽのショーケースのラインアップを考える。
踏切を渡るのが怖かった。大きな音が昔も今もずっと怖くて苦手だ。
同じ通学団の一学年下の男の子たちがアマガエルを線路に投げ込み、電車に轢かせて遊んでいた。カエルは水風船みたいにパチンと音をたてて弾けるのだ、とその時に知った。
子どもは純粋なようでいて、残酷である。
いけないことだとわかっていながらアリの巣を水攻めにしたり、捕まえたトンボの羽をもいだりする。
その時の私はというと、それを止められるような勇気も正義感もなく、笑えばいいのか、かわいそうだと泣けばいいのか、自分の振る舞い方の正解は何なのかが最大の問題で、カエルのことなんて考えちゃいなかった。
弾けたカエルの音が耳の底に焼き付いているのはきっと罪悪感のせいで、それでも私は日常でその音のことなんてすっかり忘れて蚊やゴキブリを容赦なく殺す。
先の五叉路には信号機がついていなくて、タイミングを見計らって渡る。
教習所の車だけが律儀に停止する。この町では車の方が強い。
瓦屋根と丸石の石垣、庭につながってそれぞれの畑が両側に並ぶ。
石垣の上に建てられた家が多いのは昔大きな台風で堤防が決壊して町が沈み、多くの人が亡くなったからなのだというような話を近所のお爺さんから聞いた。
お線香の匂いとご縁さんが唱えるお経、朝ご飯の出汁の残り香、情報番組のキャスターの無理をしているような明るい声が路地に溢れてくる。家と家の間の路地は敷地ははっきりしているのに空気の境界は曖昧で混ざり合っている。おばあちゃんの家と似た香りが薄く香る。
坂の前の角の家でシェパードと芝犬をたして2で割ったみたいな雑種の番犬に必ず吠えられる。いつも味噌汁ご飯を食べている。かわいいと思ったことは一度もない。大きい音は嫌い。
坂を登ると少し上から町が見える。ぺったんこの土地で田んぼと畑が延々と広がり、その間に民家がポツリポツリとある。大きな河川を挟んだ向こう側の山や街を遮るような高い構造物はなく、稲が揺らめいている景色が視界で一番大きな面積を占める。風の形が見える。風は質量と密度を持ってこちらに向かってくるように思えた。
コールタールで塗られた黒くて古い木造の蔵にはミツバチが巣を作っている。前を通る時は刺されるんじゃないかと緊張する。怖いものばかりよく覚えている。横の空き地にあるドラム缶の中の水は腐っていて、虹色の薄い油膜が揺らめいている。いつもボウフラが大量発生していて、横を通るときは必ず口を閉じて目を細める。
学校の隣の公園はその昔にきた台風で亡くなった方々の魂が眠っているらしい。一度運動場でキックベースをしていたら公園までボールが飛んで拾いに行ったことがある。白い御影石でできた仏像は身体に対して顔が少し大きく、鋭い表情をしている。公園に立ち入ることを咎められているような気分になる。兄が小学生の時は毎年サッカー部が肝試しをするのが恒例になっていて、本当に出るらしい。霊感はないし、見たこともないけれど、背筋が冷たくなるような感覚をよく覚えている。
わざと順番を間違えながら通学路を描写する。
3600回ほど往復した道。
時間の流れが遅い町では半分以上は記憶のままで、初めて歩いた時から感覚と思考と身体だけ20年の間でアップデートされていてちぐはぐな感じだ。
時間の流れ方が緩やかなものに安心感を覚える。
もともと大きな変化に対応するのは得意ではないと知っている。
そのくせ自分自身は早く変わらなければ、成長しなければ、と生き急いでいる。自分の心地良いを選んでもいいのだと優しい人は言うけれど、頑張れるうちは頑張ってみようとしている。そのうちに段々好きなことや目指す先がわからなくなって迷う。強い人間で居たいと願う。
つくりたい、綺麗、大切に取っておきたいものや感覚、そういう原点の中に突破口はないのか、勉強机の引き出しをひっくり返すように記憶と感覚を探す。通学路の中にあったらいいのに。ヒントなんかが。