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使徒使徒死都死都雨が降る〜筒井康隆「敵」

東京国際映画祭で東京グランプリに輝いた「敵」(吉田大八監督/筒井康隆原作)。

ちょっと気になって、原作を読んでみました。

主人公は、妻に先立たれた一人暮らしの元大学教授。75歳。

各章のタイトルが、朝食、郵便物、預貯金、買物、野菜、親族、風呂、映画、老臭などとなっていて、例えば、朝食は何をどのようにして食べる、物置には何が仕舞ってある、退職金や年金を合計した預貯金がいくらあり、あと何年でなくなる、とか、それぞれが一章まるごと、ディテール豊かに、まるでカタログのように綴られています。

筒井康隆「敵」

そんな主人公の日常が淡々と進むなか、ある日突然、「敵」らしき存在が顔を出します。
読む専門のパソコン通信(平成10年の作品なのでパソコン通信)の書き込みに、それを見つけるのです。

「敵です。敵が来るとかいって、皆が逃げはじめています。北の」

その後も、日常の章が続くのですが、「敵」は主人公の脳内にじんわりと忍び込んできます。

日常の描写の隙間隙間に差し込まれる、現実と妄想の静かな戦闘。

ときには元教え子や近所のスナックで働く女子大生との情事に脳はよろめき、
ときには入浴中に亡き妻が裸で現れたり、
ときには昔見た映画の中に入り込み、時代劇の立ち回りをしてみせたり、
さらには住宅街を舞台に銃撃戦を交わしたりもする。


いったい誰と戦っているのか。「敵」とはなんだ。


認知症に罹ってしまった人を、昔は「恍惚の人」なんて言っていた。(有吉佐和子の小説)

当時どうしてボケを恍惚なんていうのかな、と思っていたのだけど、恍惚を辞書で引いてみると、<心を奪われてうっとりするさま>なんていう意味もある。


「敵」が存在し始めてからの主人公は、目的が見つかったかのように思考(妄想)の範囲が広がり、饒舌で活動的となっていく。
まさに恍惚だ。

具体的に姿形は見えなくとも「敵」はそこにいる。
そこ、とはどこか。
自分自身のなか。
年老いていくことの不安や脅威や絶望や、そして孤独。

と考えると、ぞっとしてくる。


最終章「春雨」がこわい。静かな雨の、その音を表現する言葉は、「敵」に支配されてしまった降参の号令のようにも聞こえてしまう。


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