渋谷のきのこ雲もいいけれど。小手鞠るい「ある晴れた夏の朝」を読んで
79年前の、ある晴れた夏の朝の上空に、忽然と湧き上がった人工の雲。
そのキノコ雲を渋谷の街に映し出すスマホAR が出たとか。
原爆の恐怖を知ってもらうため、というけれど、ビジュアル的な巨大さや覆いかぶさる威圧感だけで、その脅威と恐怖はどれだけの持続力と浸透力があるのか、どうも疑問です。
なんたって、渋谷、ですよ。刺激物に満ちている渋谷ですよ。
一瞬の体験は、スクランブル交差点を渡り切る間に、またすぐ他のなにかに上書きされて、するっと蒸発してしまうんじゃないかな。
アメリカ在住の小手鞠るいさんの「ある晴れた夏の朝」という小説があります。
アメリカの高校に通う8人の高校生が、原爆肯定派と原爆否定派に分かれ、公開討論会を行う、という物語です。
高校生は、主人公の日系アメリカ人のほか、ユダヤ系、チャイニーズアメリカン、ブラックと多様です。
彼らは、4人ずつに分かれ、データ、歴史的経緯や文献に基づいた主張を交互に行っていきます。
中学校の課題図書にもなっていて、セリフ中心で展開していきますから、とても読みやすいです。
かといって、軽い、わけではありません。
高校生らの主張は、79年前の2回の原爆投下の是非だけでなく、そこに至るまでの、日本の行ってきたこと、覇権を握りたいアメリカの顕示や、さらには人種、差別、報復と、広く深まっていきます。
例えばそれは、
原爆は戦争を終わらせるための必要悪だ。
原爆という新型爆弾の成果を知るための人体実験だった。
真珠湾攻撃の報復だった。
日本が中国や、他の土地で行ってきた侵略行為への報いだった。
原爆実験がネイティブアメリカンの暮らす土地やビキニ環礁など白人のいない土地でのみ行われてきたことから人種差別の現れだった。
など。
なかでも、
広島平和記念公園の慰霊碑に刻まれている
【安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから】という碑文を巡る討論は、日本とアメリカの、言葉をめぐる文化の違いにまで踏み込んでいきます。
日本語で刻まれた碑文には主語がありません。
高校生はその碑文を訳す際、We Japaneseという主語を加え、そう、このように日本人は反省している、だから必要悪だ、と主張する。
それに対し、日系アメリカ人は、主語を省かれることの多い日本語の特質から、その碑文の主語は、もっと広く、日本人でありアメリカ人であり、人類である、と主張する。
公開討論会だから、観客からの投票で勝敗を決めることはできます。
でも、もちろん、どっちが勝つ?なんていうことは重要ではありません。
「対話」を繰返し、互いを理解し合うことが必要だと、この小説は教えてくれています。
文庫版のあとがきで作者小手鞠るいさんが書いています。
高校生らが主張していることは、なかには強引で結論ありきのものもあれば、詭弁や突飛なこじつけのようなものあります。
でも、8人は、間違いなく対話しあっていました。
どうも最近、政治の世界では、対話を避けたり、質問をずらしたり、攻撃だけをする姿が目につきます。
そこには一方的な吐き出しだけがあり、「対話」のようなものがないような気がします。
対話をすることで、続けることで、自分の意見を変わることだってあるし、それは恥でもなんでもありません。
この物語は、「対話」が生み出す、そんな価値を描いています。
渋谷にキノコ雲を浮かばせて、一瞬だけでも原爆について考えることも大切です。
でも、技術に頼り技術を味わうことで、本質とは異なった部分に感心して終わってしまう、そんな危惧さえ感じてしまいます。
真面目に真剣に語ることはダサくて敬遠されちゃう、だから、ドラマや映画や小説のクリエイターたちは、物語を通じて、登場人物を通じて、戦争の悲惨さや平和の難しさを伝えようとしてくれています。
最近では「虎に翼」の星航一(岡田将生)の告白に涙しました。虚無や後悔も戦争が生み出した負の一面です。
そんな映画やドラマや小説を通じて、ちょっとの間でも考えてみることも、対話と思いたいです。
小手鞠るい「ある晴れた夏の朝」
中学の課題図書ですが、もちろん大人が読んでも、いや、大人こそ読むべきかもしれません。
自分の無知を知ることができました。