「茄子の輝き」を読む時は傍らにはネコがいて欲しい
映画「花束みたいな恋をした」のなかに、(有村架純演じる)絹が本を読み終えたあと、感動とともにふうと息をつく、というシーンが出てきます。
絹が読んでいた本は、これ、滝口悠生「茄子の輝き」です。
7本ほどの中編が収められている「茄子の輝き」は、その殆どが、取扱説明書を制作する小さな会社に勤める主人公の、なんてことのない日常の切り取りです。
お茶汲み当番のペアをどうやって決めようかとか、途中入社の女性・千絵ちゃんがどれだけ可愛いかの話だったりで、展開が気になる事件も、じれったい恋の駆け引きも、一切ありません。
そうなんですけども、いいんですわこれが。
いまここに、有村架純さんがいたら、よかったよね〜と抱きしめてしまうかもしれない。やばいやばいいなくて良かった。
しかし、「茄子の輝き」の、というか滝口悠生さんのなにがいいんだろう。
文体?言葉の選び方?リズム?描写?
「茄子の輝き」に関していうと、特に同僚である千絵ちゃんに対する愛しさの表現が輝いている。
主人公の千絵ちゃんへの感情は、主人公自身も言うように「恋」なんかじゃなく、例えるなら幼子やペットに対する愛玩のよう。存在そのものが愛おしく、その存在への感謝さえも感じてしまう。
素直でストレートなその表現は、とても心地よい。
以下、一部引用
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なんだか千絵ちゃんが古川琴音に思えてきた。
こうしてひとりの女性を描写する文章を引用してニタニタしている自分は、あぶないのか?
アイドルのMVやグラビアをトイレの個室にこもりスマホで見ているようで、あぶないのか?
そんなことはない。
滝口さんの文章に惹かれている人はもちろんたくさんいるし、その文章きっかけで結婚だってしている。
滝口悠生さんのパートナーは、ブックデザイナーの佐藤亜沙美さん。
佐藤さんは、まだ小説家になる前の滝口さんの文章をフリーペーパーで読んでひと読み惚れしたらしい。
ひと読み惚れ。人に恋心を抱かせてしまう文章。なんかいい。なんかわかる。
映画とかを観て、その感想を語る場合あらすじについて語ることってあまりない。
ピアニストと俳優の卵が出会って恋をして歌ったり踊ったりするけれど別れることになり、そのとき別の選択をしていたらどうなっていたんだろう、というストーリーがいいよね。なんてあまり語らない。
そのストーリーを構成するいくつかの細部について語る。
あの表情、あのカメラワーク、あの音楽、あの衣装、あのセリフ…すべてが断片で韻文的。だから小説だってそれでいい。そういう味わい方があってもいい。
標題の「茄子の輝き」とは、退社して彼氏の実家のある島根へ行ってしまう千絵ちゃんと最後に一緒に食べた茄子のことで、均等に斜めの切れ目が入り、鰹節とすりおろした生姜がのせられた紫色の皮の茄子、という描写に、ただ舌なめずりしたっていい。
読後に覚えているのが、その輝いた茄子のことだけだっていい。
滝口悠生の小説は万人受けではなく、この「茄子の輝き」だっておそらく多くの人が退屈だと感じると思う。
なんか全然話が進まない。変化がない。って。
そして不思議と滝口悠生の小説を読む時は、傍らにネコがいて欲しい。
腰のあたりに身体を預けて眠るネコがいて欲しい。そしてページを捲りながら、そのネコの背中や首筋をゆっくりとやさしく撫でたい。そんなふうに読むと、もっと一層味わえそうな気がする。まったく根拠はないけれど、そう思う。