その河だけが、万人に、いや万物に平等だという事実。
1月24日、遠藤周作『深い河』読了。
もっと難しい語り口で、難しい内容なのかなと思っていたが、真逆で、やさしく、とても読みやすい文章で先が気になってしかたがなくて、早く寝なければいけないと思いながら、深夜まで読みふけってしまった。
面白くて面白くてページをめくる手が止まらない本。
そして、先へ進むほどに孤独が募り、悲しみが押し寄せ、諦めが襲い、無力感に放心する、私にとって『深い河』はそんな小説だった。
生きることはつらい、と私はよく思うが、「生きることはつらい、だけどたまに、ほんの少し、ほんの短い間だけだけど幸福を感じる瞬間がある。だから生きていける」。日本に生まれ、日本に育った私の人生観。
「自尊心を傷つけられた」とか、「努力してるのに欲しいものが中々手に入らない」とか。「自己中な性格で人から嫌われる」とか「不安障害で苦しい」とか、「人間関係に疲れた」とか、挙げ句の果てには、「毎日同じ事の繰り返しで辛い」とか。
私の思う人生は辛いなんてその程度だ。まるで嫌味だった。まるで戯言だった。
彼らは人間の形をしながら人間らしい時間のひとかけらもなかった人生で、ガンジス河で死ぬことだけを最後の望みにして、町にたどり着いた連中である。
と本文にある。
ガンジス河に流されることだけを目標にして生きる人々。
それ以外、およそ人間らしいことの何一つも望むことの許されない、人生。
そんなアウト・カーストの姿もこの小説の重要な要素だ。アウト・カーストと向き合う1人の日本人神父の生き様も。それ以外にも転生や愛や日本人的キリスト教など、さまざまな要素を含む本小説。
色々ある中で、私はどうしても彼らのことが強く心に残る。
人間の形をしているのに、人間として扱われない人々のことが。
道端で、泡を吹いてうずくまっていても、誰にも、一瞬たりとも、見向きもされない人々のことが。
胸の奥のあたりが重苦しい。
死人の灰を流す火葬場のすぐ近くで、無数の男女がその河の水を口に含み、全身を水に浸す。そして祈る。祈る最中にも犬の死体がすぐ傍を流れ去る。生と死。善と悪。神聖と淫猥。人間と非人間。何もかもがごちゃまぜになり、その混沌すべてを飲み込んで悠々と流れる河。
その河だけが、万人に、いや万物に平等だという事実。
人間って何?
思わずそう呟いている。
考え出すと、怖くなる。
私は本当に、人間なのかーー
背筋が凍るほどの不平等の対比としてガンジス河を想う時、ヒンドゥー教の人がなぜ、深い河をこんなにも求めるのかを、少しだけ、少しだけ、塵の百億分の一ほどの小ささで、感じたような、気がした。