
済補という表現の解釈~『ゲーテはすべてを言った』を拝読して~
※本編のネタバレはございません。
第172回芥川賞を受賞された、鈴木結生氏の『ゲーテはすべてを言った』では、済補という言葉が度々登場する。
スマートフォンの略語であるスマホを漢字表記したものである。
ひとえに私の読書経験の浅さに起因するものかもしれないが、
この当て字はとても新鮮に感じた。
そこで、的外れも良いところかもしれないが、この当て字について私が考えたことを書いてみる。
当てている漢字の意味をそのまま考えると、すでに済んだことを補うというニュアンスが含まれていると考えて間違いないであろう。
写真にしても動画にしても、動画の場面は常に過去である。
すでに済んだ出来事をメモや記録として補うため、この作品におけるスマホは、そういう役割を担っている場面が多かったように思う。
「スマホ」はその多機能性から、その作品における用途の重要性によって、適当な当て字が変わるのではないだろうか。
配信機器としてのスマホであれば、「全保」?
万歩計としての用途が重要であれば、「純歩」?
(自分の当て字センスのなさには驚きました。)
いずれにしても、文学における重厚感を維持する目的において、試行錯誤を重ねた上で、「済補」という表現に至ったのであろう。
たしかに、「スマホ」という言葉は、登場人物の行動を描写する際に避けては通れない和製英語となった。それほどまでに人とスマホの結びつきは強く、人を描写するためにはまず、スマホの描写が必要となるといっても過言ではないであろう。
このような形でも、スマホの普及を知ることができた。
やはり読書はおもしろいと改めて感じた。