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法の光芒(こうぼう)に浮かぶ解釈の行方



 時系列と事実の純然たる骨格に対し、我々は解釈という血肉を与える。生の出来事がただそこに在るだけでは、どんなに毅然たる条文であっても判決を導きはしない。紛れもなく、解釈は我々の自由意思が法の範疇に姿を投げ込むための架け橋である。にもかかわらず、感想という幻想は、しばしば解釈と同等に扱われ、裁判所という厳格なる舞台には無縁の詩的な羅列で世界を覆い隠してしまう。

 感想文や一行日記、あるいは遠足の「楽しかった」「疲れた」といった綴りが、日本人の思考の底に長らく息づいているのは事実だろう。だが、そこには時系列も事実も欠け、結果として感興のみが空気のように漂う。吹けば飛び散る雲霞(うんか)のようなその感興を、法廷の場で口にするならば、論点はいつまでも定まらない。議論の核心へ到達することはなく、万事が散逸するばかりである。

 しかし、同じ「解釈」という言葉の下でも、時系列と事実を踏まえ、精密な法の条文を鏡として自らの思考を映し出す行為は、まさしく論理思考の本質だ。八月四日の朝、ある人の手がお尻に触れた——これを事故と認定すべきか、痴漢と断罪すべきか。誤解や誤謬といった要素はあれど、事実という外骨格に則って解釈を施さねば、正邪を分かつ刃は鈍り、曖昧な感想の濁流へ溶けてしまう。

 社会においては「感想」が人間性を彩る一端であることを否定できぬが、法の秩序においては曇りなき論理の光芒こそが判断の骨格を成す。そのために必要なのは、ただ二点——時系列と事実。そのうえで初めて人間の自由意思が法を射程におさめ、合理的な解釈を生み出す。そこには神仏の教えも、カゲロウのような感想も不要である。正に論理の澄んだ器に浮かぶものが、法的解釈としての「真の思考」なのだ。

 次稿では、事実と時系列を軸に据えた上で、いかなる形で解釈が成立し、また他国の宗教的思考や独特の哲学的視点が法廷思考とどう齟齬するかをさらに詳細に論じたい。まさに、解釈こそが法というフィロソフィーを実体化する刃であり、同時に我々の自由意思を照らす試金石にほかならぬ。

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