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変わり目のグッバイハロー
気がつけば身を焦がすような焼けつく日差しや青々とした木々たちのことも、どこか懐かしいと感じてしまうほどに季節は移り変わっていた。
薄めのニットに腕を通し、後輩から譲り受けたお下がりのベージュのアウターを羽織る。
もうここには夏は居ないのか…。
そう思ったことが、どこか切なくてやっと本格的な秋がやってきたのだと心が弾んだ。
冬ごもりならぬ夏ごもりを実施する!という一風変わった生き方を採用したのは数年前。それからというもの、この切なさが秋の訪れと夏ごもりの終了を知らせるサインになっている。
***
夏ごもりを取り入れたのは30代になってからだ。クーラーをつける季節になると、冬眠中のクマのように私はいつにも増して家にこもり始めるようになってしまった。
素肌をジリジリと焦がすような日差しが私をいたぶる度「新手の拷問か!?」と思ってしまうことも、最高傑作とも呼べるほどに作りこんだメイクが湧き出る汗のせいで崩れてしまうことも、頭を抱えて選んだコーディネートだというのに何を着たってべとりと張りついてくる感触も、夏らしさと言ってしまえば そうなのかもしれない。
けれど、その夏らしさを好きになれなかった。受け入れられなかった。むしろ、受け入れてやらないとすら思う日もあった。
子供の頃はどんな季節だって楽しめていたのに、いつしか夏は私の天敵になってしまっていた。
天敵と鉢合わせれば逃げたいと思うのは動物として自然なことだ。鼠が猫から逃げるように、私は毎年夏から逃げたくなってしまう。
けれど、どれだけ逃げたいと思ったって四季の豊かさが素晴らしいJAPANでは夏とやらは必ず目の前にやってきやがる。それに夏以外はJAPANを気に入っているんだから、逃げようにも逃げられやしない。
ならばいっそ捉え方を変えて「存分に出不精を楽しんでやればいい」と夏の楽しみ方を変えることにしたのが、夏ごもりの始まりだったりする。
24時間 居心地のいい温度に保たれた涼しい部屋で、キンキンに冷えたアイスカフェラテを飲みながら物思いにふけてみることも、キャミソールと半パンの姿で弾き語り1人ぼっちコンサートを開くことも、今年は夏野菜が高いような気がするわ〜なんて思いながらレシピ本にすら書かれていないような料理を作ってみることも、今では私の夏の風物詩になっている。
以前なら羨ましい気持ちが湧き上がっていたSNSの夏らしい投稿も、今では間接的に夏を感じることが出来るお楽しみお届けツールになっている。
画面上に映る水着や浴衣の女子を見ては「可愛い」と心はときめいてしまうけれど、間髪入れずに「けど、暑そう〜」と思ってしまい、以前なら可愛いの次に浮かび上がってくる気持ちは「私もしたい」だったのに、連想してしまうの暑さばかりになってしまった。
羨ましさよりも、涼しさ重視。
可愛さのために暑さを選べる女子たちは凄い。
私は、ひたすらに快適さだ。
積極的に夏を満喫することは極端に減ってしまったけれど、今年は海に花火、夏祭りだって味わうことができた。ビーチを満喫する水着ギャルのような楽しみ方でなく足湯のように海につかり、花火や夏祭りならではの浴衣でカラコロするのではなく、履きなれたサンダルに着慣れた服を着て左手に扇風機、右手に生ビールを持って。
これが老いというやつなのだろうか。
***
気がつけば夏は過ぎ去っていた。
私の天敵は、もう目の前にはいない。
嬉しいけれど、どこか切ない。
夏ごもりが終わり新しい季節がやってくるということは、私の活動期が始まるということ。やっと動けるんだ!と清々しい気持ちになったり、動いていくってことは変化が起きるということか…と不安に苛まれたり。
肌寒さを感じるようになってから、感情の揺れ動きが大きく深くなり始めている。
もうすぐ小説の執筆が始まるんだな…。
そう思ったということは、私はそうしていくのだろう。てっきり夏ごもり中に執筆が始まると思っていたのに、気づけば10月だ。
言っている間に11月。
楓の美しい季節がやってくる。
切なさも、懐かしさも、存分に夏が私に感じさせてくれたから。きっと感情を文章に変えて紡いでいけるだろう。
ぐっばい さまー はろー おーたむ。
文章のリハビリは必須かもしれないな。