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この国に生きるわたしはー大島新監督作品『香川一区』

大島新監督は、故大島渚監督の息子である。国会議員の世襲制、二世三世議員が溢れる現実について、さまざまな議論があるが、映画監督も「二世監督」と呼ばれることがあるのだろうか。

といっても、わたしは今のところ大島新監督について「二世監督だよねー」なんて噂話は、見聞きしたことはない。そもそも世間一般では「大島渚って誰?」なのかもしれない(わからない人は、検索して調べてみてね)

てなことを思い致していたのは、一昨年より異例のヒットとなったドキュメンタリ『なぜ君は総理大臣になれないのか』の「続編」と銘打たれ、立憲民主党の小川淳也議員を追いかける新作『香川一区』が、前作とは様相を全く変えていたからだった。

『香川一区』は、2021年の秋、解散総選挙において繰り広げられた衆議院選挙戦を香川一区の候補者、小川淳也を軸に、強力な地盤を誇る三世議員「初代デジタル大臣」自民党平井卓也、そして公示直前になって突然立候補を表明した日本維新の会、町川順子、3名の候補者とその支持者、地域の現実を映しとり、主題としているー

のだったが、大島監督も公式サイトで述べているように、もう一人の主人公は、取材者である「大島新」その人であった。映画は、冒頭、監督が小川議員を尋ねる様子から始まるー

わたしが思い出すのは、別の映画のことだった。森達也監督『i-新聞記者ドキュメント 』以下は、その時の感想ですが。

映画の中で森達也監督は、やはり常に映り込んでいる。「撮影すること」自体が、ドキュメンタリとでも言えばいいのか。なぜそうなるのかと言えば、政治や政権を取材しようとすると、その取材者の立場によって阻止しようとする、阻害させる、「報道させない側」が、明らかに存在しているからだと思う。

「日本に報道の自由がある」なんて嘘だというか、虚構だというか。その虚構性を森監督は、敢えて自らが映り込むことによって切り取り、世間に訴えたかったのではないか。

一方『なぜ君』は、主題の通り撮影は、小川議員に集中していて、対抗勢力への取材はあまりされていない。しかしこれも大島監督が説明するように『香川一区』と題されたとき小川議員とその周囲だけを映すことはできない。なにしろ「香川一区」なのだから。

そうして、その主題に挑み、取材しようとしたとき。さまざまな出来事が、監督自身と撮影クルーへともたらされ、あるいは襲いかかってくる。その模様もリアルタイムのドキュメントとなっていく。

強大な地盤と政治的な権力を持つ、与党自民党平井卓也と『なぜ君』によって予想外にSNSで拡散され、意図せず若い世代に受け入れられ認知が広がった野党立憲民主党小川淳也の間に、これまた意図とは違った形で立つことになった大島監督。

わたしたちは、この分岐点から両側を眺めることになるし、その監督(平井陣営の撮影に向かったプロデューサー前田亜紀も含め)の立場自体が「政治的な体験」となって、見る側に迫ってくることになる。

その視点を踏まえた「香川一区」は、ものすごい大雑把な印象で申し訳ないが、言うたら「黒いおっさん軍団、平井陣営」と「ほんわかタペストリー、いろんな色の小川淳也を応援する人々」とのあまりにも、本当にあまりにも、あからさまなコントラストである。

実際具体的に「初代デジタル大臣」の顔は、よく日に焼けているのであるが、そういう意味でなく。与党自民党を支えているのは、こんな風に黒いスーツを着て、周囲を見渡し、威嚇的な態度を取ってなんら不足とも思わない、むしろそれが自然とするおっさんと、それに従うことに、やはり不自然と思わず、むしろやりがいと意義を感ずるおばさんたちだった。

一方、小川淳也を取り巻く人々は、一見して黒いスーツの人は、いない。多くの支える人々は、普段着であり、作業着であり、もしくは「自分の好きな格好」をしている。バラバラだが、何かしらの共通意識はある感じの。だから「ほんわか」なんだけど…。

あまりも明からさまな違いなので、なんとも言われないが、まさしくもこの風景が現実的な「日本の縮図」というやつなのだろう。多少の犠牲はあっても「黒いスーツ」でまとめて「全体」をとるか、溢れていく弱者を掬い取れる「個人」が生きやすい社会を目指すのか。もっと別の選択があるのか。

考えるのは、わたしたち有権者である。この国に生きる。

そして、大島監督が「撮りたいものを撮れない」立場に置かれることもリアルタイムの日本の現実であり、映画の最大の価値は、そこにあるとわたしには思えた。

画面から浮き出す「不自由」は、わたしたちの全てが、囲われてる、幻想の正体のようだから。

「自由」とは、ただありのままに勝手にやってくるものじゃないんだよ。

(文中敬称略)










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