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「ショウコの微笑」 チェ・ウニョン著

朝、この本を読み終えた。子どもたちが登校して、夫はキムチを漬けている。コロナ禍で子どもたちの登校日が減り、今になって、帳尻を合わせるかのように土曜登校日が増えている。テレビでは子どもたちは修学旅行も学園祭もなくなり、給食も前を向いて黙って食べているのに、政治家や大人たちはあいかわらず会食をしているのはどうなのか?感染対策を一生懸命してくれている大人たちもいて、そのことには感謝している。などの子どもたちの意見が、ワイドショーで取り上げられている。

仕事で海外へ行く機会がまったくなくなった夫は、毎日3食ご飯を作り、掃除洗濯も私よりマメで、ついにキムチも自分で漬け始めた。テレビを見ながら、キムチを漬けながら、本を読んでいる私にお構いなく話しかけ続けるので、たまらず別の部屋に移動して、また本を読む。

一緒に手伝わず、味見で呼ばれた時も、「せっかく集中して読んでるのに…」とブスッとした顔で口を開けた私は、思いがけずキムチがものすごくおいしくてびっくりする。韓国にいたころも、姑がよく漬けたてのキムチをおいしいところをつまんで私の口の中に入れてくれた。夫はビニール手袋をしているが、姑は真っ赤に染まった素手で私の口に放り込んでくれた。

夫がキムチを漬け始めたばかりの頃、日本の白菜は水っぽくて、それがそのままキムチにも出てしまい、味があまり染みていなかった。今回、それでキムチを塩漬けする時間を5倍にしたと言った。キムチを漬け終わり、キムチ冷蔵庫いっぱいにキムチを入れると、夫はとても満足げに笑った。

朝ごはんも、キムチも夫が用意してくれて、皿洗いも本を読んでいる間にやってくれていた。洗濯機ももうまわっている。その間に私がやったことは本を読んでいただけ。私はダメだな…役立たずと思っているだろうな…。と思いながら、そんなに悪いことかな?と思ったりもする。

そんなふうに一緒に家事を手伝わなきゃ…ともぞもぞしながらも、本から目が離せなくて、最後まで読んだ。家族といる時、夫が料理をしたり仕事をしたりしている時に、一人本を読んでいるともぞもぞしてしまうことがよくある。はたからみたら、ただ気ままに本を読んでいる姿しか見えないのだけれど、こうしてていいのかな…と、一緒に家事をしないと…、他にやることはなかったっけ?一緒に暮らしているパートナーなのに、妻なのに、母親なのに、大人なのに…と、落ち着かない気持ちになる。何に居心地が悪いのか、よくわからなくてもぞもぞしたまま本を読む。そういう時の自分は自意識が全部自分に向かっているような気がする。

「ショウコの微笑」に書かれた7つの物語は、今を暮らす私たちの物語とつながっている。「私に無害なひと」の7つの物語も、同じように今とつながっている。そのことがはっきりと感じられた。

人の暮らしは時代と切り離すことはできなくて、パソコンのOSのように、見えないけれど、それによっていやおうなしに動かされてしまうことがある。日本と韓国との関係、韓国とベトナムの関係、光州事件、セウォル号のこと、男女差、物語を読みながら、にじみ出る時代背景や社会の在り方、そこからくるどうしようもなく切ないものもある。

ああ、これはあのことだ。私のあの時の感情にも似ている。読みながら、その時はどうしたらいいかわからなくて、無理やり押し込めてしまったものに陽をあててもらって、虫干しさせてもらったような、読み終わってすぐ、そんな気持ちになった。ああ、あの苦しい気持ちはそうとも捉えられるのかもしれない、と思ったり。

7つの物語は起きたことが起きたまま書かれている。そこに是非や結果がない。これがチェ・ウニョンさんなのかなと思う。言葉をつくして描かれているものに、色がついていない、そんな印象を受けた。

そしてこの本には私と反対側にいるように思える、姑や夫を思い起こさせる人たちが出てくる。人に対してあたたかくいられる人たち。時代や環境、性別、年齢、国籍に関わらず。

切ないけれどあたたかくて、あたたかいけれど甘くはない、そんな物語。

この人が書く本をもっと読みたいと思ったし、何度も読みたいと思った。

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