見出し画像

僕詩。 1.聡介の冬

 夢をみていた。
 街をたくさんの人が歩いていて、横断歩道はごちゃごちゃだった。人はゆらゆら、影のようにざわざわと動いていた。聡介(そうすけ)はそのなかで、目的地をさがしていた。どこに行けばいいのか、どこかに行かなければいけないのに、わからずただ目的地をさがしていた。
 歩いても歩いても見つからない、人混みのなかをずっとずっと歩いている。まわりはビルにかこまれていて、信号はずっと赤のままだった。車は見当たらない。人、人、人ばかりがうろうろしていた。ドアをあけてもあけても目的地じゃなかった。
「ここじゃない。どこなんだ。」
 ハッと目が覚めた時には、口はからからに乾いて、息苦しかった。じんわりと汗もかいていた。3回深呼吸をして、それから大きなため息をついた。
 あぁ、夢で良かった。
 枕元の時計は5時32分を表示していた。二度寝をしてもまた嫌な夢を見てしまいそうだった。
 聡介はベッドからおりて机の上でノートをひらいた。
「11月21日 5時32分 悪夢みて起きた」
 それだけ書き込むと、部屋を出てとなりのキッチンへ移った。2DKのこの部屋は賃貸で借りているものだった。母親の部屋、颯介の部屋、あとは和室の居間とキッチンだった。
 早朝のキッチンはうす暗く静かで、ひんやりと冷えていた。コップに水をなみなみ注いで飲み干した。まだ悪夢の感覚が胸のあたりに残っていた。悪夢はきらいだ。最近この時間に目が醒めることが増えたせいで、授業中眠くなってしまうのだ。
 やる必要のない予習をやろうと、聡介は部屋に戻った。
 そうだ数学をやろう。数字を書くのは好きだった。明確な正解がある。数式がほどけていくように答えになるのが好きだった。ぴったり答えが合うのがなんとも気持ちいいと思った。
 聡介は猛然と数学ノートを数字で埋めていった。朝7時になった。アラームをとめ、学校のカバンをもって居間へ向かった。
「おはよう。ちょうどご飯できたところよ」
 母親が配膳を終え、椅子に座った。
「おはよう。いただきます」
 昨日の残りご飯とわかめと豆腐の味噌汁、それからみかん。ちょうど食べきる量が盛られている。
「今日は降るみたいよ。傘忘れずにね」
「わかった。ごちそうさま。いってきます」
「いってらっしゃい」
 外はピリッと寒かった。マフラーを巻いて歩き始める。学校へ行かなくちゃ。このままどこかへ行ければいいのに。学校しか行けないけど。もし学校へ行かずに電車に乗って、しらない終点まで行ったら、母親はどう思うだろう。きっと心配するだろう。それとも怒るのだろうか。警察騒ぎになったら困るな。行方不明届を出されてしまうだろうか。いや、まずスマホで連絡がくるだろう。「いまどこにいるの?」と。スマホの電源を切ってしまおうか。いや、学校へ行かなくちゃ。
「おはよー」
 校門のところで秋斗(あきと)に会った。秋斗はひょろっとしていてメガネをかけているせいで賢くみえるけれど、ばかですけべなことを聡介は知っていた。小学校が同じだったから秋斗とは気心知れた仲だった。秋斗には兄が一人いて、兄の冬樹(ふゆき)は文武両道で女子からも男子からも慕われていた。秋斗は「俺はいいんだ。自由にするから」と口癖のように言っていた。前髪が長すぎるのもその「自由に」しているらしい。
「寒くなったよなー」
「ああ」
「女子がタイツ履くようになって俺は悲しい」
「そうか」
「聡介元気ないな」
「うんまあ」
 秋斗は聡介の顔をじっと見つめたが何も言わなかった。
「・・・体育バスケかな」
 下駄箱で靴を履き替えながら秋斗が言った。秋斗の上履きはかかとが踏み潰されていて、全体も薄汚れていた。
「うん」
「バスケだといいな」
「僕は苦手だな」
 聡介はパスを出すのも受け取るのも嫌だった。ゴールを決めるのなんて一部の上手な人達だけだ。
「俺はなんでもいいんだ。机に座って勉強するより体育は楽しいから」
 秋斗は階段を軽々と駆け上がった。聡介は一段一段重い足取りで教室へと登っていった。
「体を動かすのは嫌いじゃないけど、今は嫌だ」
 ちいさな聡介のつぶやきは誰にも届かなかった。

 1週間が経ち、そしてまた1週間が始まる。
 そんな当たり前のことが聡介にはしんどくなりはじめていた。
 毎日宿題をやって、翌日の準備をし、ご飯を食べてお風呂に入る。眠ったら朝が来る。学校へ行く。勉強をする。宿題をやる。翌日の準備をする。
 週末の休みは、最近は家の座椅子で本を読んですごした。以前みたいに、秋斗の家でゲームをしたり、土手へ出かけてザリガニ釣りや昆虫探しするのはやめていた。だいいち外は寒い。11月半ばをすぎて気温はぐんぐん下がる一方だった。
 ロビンソンクルーソーや海底二万海里を読むのは楽しかった。ガリヴァー旅行記も読もうと思って図書館で借りていた。
 けれど読もうとページを開いても、文字を追うのがむずかしくなっていた。頭に入ってこない。今までは読むと情景が浮かび、まるで主人公になった気分で、できごとが目の前で繰り広げられていて、そこにいるかのように没頭することができたのに。声が聞こえるくらい、世界に入っていけたのに。
 今はただ文字が並んでいるだけだった。
 聡介は本をそっと閉じて、そのまま横になった。なにも手につかない。なにかをする気になれない。
 母親は掃除や洗濯を済ますと、食材の買い出しに出かけていった。父親はどこにいるのか知らない。7年前に出ていったきり、帰ってこない。母親は何も言わないし、聡介は聞く気もなかった。知るのが怖かった。不倫なのか離婚なのか、事故なのか故意なのか、死んでるのか生きているのか、聞いてしまったら「こたえ」を知ってしまうのが怖かった。知らないままでいたかった。そうすれば普通に父親がいる家庭でいられる気がした。そんな気がするだけだということは、聡介にもわかっていた。
 秋斗に前に言われた言葉を思い出していた。
「聡介って真面目すぎるんだよな〜」
「そんなことないよ」
「ちょっとぐらいズルとかワルしようぜ」
「たとえば?」
「上履きのかかと踏んで歩くとか〜宿題を計算機使うとか〜」
「そんなことして何になるの?」
「そういうとこなんだよな〜」
 ズルとかワルをすればこの重たい気持ちをどこかへ捨てさることができるのだろうか。真面目すぎると疲れるのだろうか。「自由に」したら気が晴れるのだろうか。聡介はおもむろに起き上がると、身支度をして家を出た。
「あ、聡介じゃん」
 マンションを出た瞬間に隣のマンションに住む松野ゆいが声をかけてきた。肩まである髪を後ろでポニーテールにしていた。目は優しく、肌は色白で、口元は甘やかだった。けれど二人はお隣のマンションにす住むただの同級生だ。幼馴染だが、お互いを小さい頃から知っているというだけだった。もちろん恋愛関係でもなかった。クラスが違ったから、最近はそんなにおしゃべりをする機会もなかった。
「どっかいくの?」
「どっか行こうと思って」
「なにそれ」
「わからない。じゃ」
 人に家を出たのが見つかったからか、見つかったのが松野ゆいだったからか、心臓はどきんどきんと早く鳴っていた。早足で聡介は歩き始めた。行き先は決めてないが、とりあえず駅に行って電車に乗ろう。
 駅に向かう途中のスーパーでは母親がいまごろレジに並んでいるだろう。とにかくこれ以上誰にも見つからずに電車に乗ろう。ずっとずっと先まで行こう。
 聡介を駆り立てているのはズルでもワルでもない、焦燥感と興奮だった。いくんだ。とにかく遠くへ。このままここにいたら、また月曜日がきて学校だ。そうしたら1週間終わって土日がきて、また月曜日だ!
 目が回りそうだった。聡介はほぼ駆け足になっていた。駅前商店街を走り抜けて、改札をすべるように通り抜け、階段を一段抜かしに登り、目の前にきた急行電車に飛び乗った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?