はたらくために生きるのは、やめた
転職する前は、いつも忙しくて疲れ果てていた。翌日が休日なら、深夜あるいは翌早朝まで仕事をしていたり、休日にどこかへ出かけるという余裕のないまま生きていた。
「明日できることは明日やればいい」という言葉は、仕事が雪だるま式に増えない環境ならば有効だけれども…。いや、ただ私は、積み上げられていく仕事に埋もれたくなかっただけだ。私がそれをやらなくても誰も困らなかっただろう。目的を見失い、ただやらなくちゃという義務感に支配されていた。
あるとき、研修の場で外部講師の言葉が胸に響いた。
「目的と手段はちがう」
「手段を目的化していないか?」
また別の講師が別の場で放った言葉が、一緒になって響き合った。
「どうしてこの仕事をしているの?」
「こんなに大変なのに。仕事は他にもたくさんあるのに」
はたらくことの目的は、お金を稼ぐこと。会社の売上向上に貢献して、給料をいただく。稼いだお金で、生活して、人生を楽しむ。その仕事にやりがいがあると、尚いい。社会に役立っているなら、少し誇らしい。顧客からの笑顔だけでも、嬉しいものだ。
でも、自分の良心に背きながらお金を稼がなきゃならないときもある。この顧客に、この商品は必要ないかもしれない。いつか、買うんじゃなかったと後悔させるかもしれない。それでも目標売上のために、クレームと返品を受けることになっても、売り続けた。
顧客満足度という評価を上げるために、ずるをした。他の人もやっていることだからとお金のために良心が麻痺していく。結果の数字だけを見ても、ずるは分からない。上司の命令であると言い訳をしながら、自分の数字が上がると嬉しいのも事実で、私はずるくてせこい行為を何度もした。
不規則な生活の中で、もうやりたくない、という本心からの声はまったく聞こえなかった。はたらくことが中心で、はたらくために生きていた。
あるとき、片耳が聞こえにくくなった。ひどい目眩と吐き気で、メニエール病かなと病院へ行ったけれど、どうも違うらしかった。薬で症状がなくなれば、病名などどうでもよかった。栄養ドリンクばかり飲んでいる同僚と似てきている気がした。何だか、やけっぱちだったのだ。
その仕事を始めてちょうど10年になったとき、私は上にも斜めにも下にも、どこにも行きたい場所、なりたい姿がないことに気がついた。今のポジションをあと何年続けることになるのだろうか。そして私の生活は、崩れたままでいいのだろうか?お金さえ稼げれば、良心に逆らったまま生きていけるのだろうか?
「目的と手段はちがうよ」
私の望む生活に必要なお金は、多くはない。はたらくために、人生の余暇を犠牲にしてきた。ほんとうは、余暇をもっと楽しむために、はたらくものなのに。
水瓶に貯まった水があふれ出していた。あふれる水の模様がレースのように美しいと思ったとき、私は商売の世界から出ていこうと決めた。
これからは、生きるために、日々の生活のためにはたらこう。空を見たり、風を感じたり、季節の移ろいを愛でられる心を取り戻そう。雨の日は雨音を聞き、晴れた日は光を浴びて。
そうして、気がついたら山中で野宿するくらいたくましくなっていた。山で見る満天の星空も、雨上がりの虹も、今ではいつでも私の水瓶の水面に映っている。