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かがみあきら・没後40年目の夏に(1)

漫画家・かがみあきらが26歳の若さで亡くなって今年の8月8日でちょうど40年になる。

noteではすでにかがみのアシスタントだった田中雅人氏が当時の思い出を投稿しておられる。私は一介の読者に過ぎなかったのだけれど、かがみあきらという漫画家は、その作品においても、その突然の死においても、子供だった私の心に消えがたい痕跡を残していった存在なのは間違いない。

だから本稿では、一読者から見たかがみの姿を全5回に分けて綴ってみたいと思う。40年。当時中学1年生だった私も彼の享年をとっくに超え、逆に26歳の子供がいてもおかしくない年齢になってしまった。遅すぎたかもしれないが、これが私にできるせめてもの手向けである。

(なお、本稿でペンネームの表記は音符なしの「かがみあきら」に統一する。記事のタイトルについても同様)

私がかがみの名前を知ったのは1983年、小学校6年生のときだ。

ここでいきなり話が逸れるが、80年代前半の出版界について触れておこう。当時の出版界は科学雑誌のブームに沸いていた。私の手元にある『SFアドベンチャー』83年10月号には科学雑誌のレビュー欄が設けられており、そこには現在まで続く『ニュートン』を筆頭に何と11誌が採り上げられている。

そんな流れに棹さしたのがあの公文塾であった。83年4月から『コペル21』という小中学生向けの科学雑誌を刊行したのだ。私は公文塾に通っていた関係で、おつきあいとして同誌を購読することになった(代金を払っていたのはもちろん親だが)。

そこに創刊号から連載されたのが、かがみの『ワンダートレック』という学習漫画だった。

原作はパラレル・クリエーション。パラクリは作家の豊田有恒が社長を務める若手クリエイターの会社で、実質的に原作を書いていたのはサイエンスライターの鹿野司だった。かがみは社員ではなかったが、パラクリのメンバーと親交があったので声をかけられたのであろう。

もっともそういう裏事情を知ったのはずっと後になってからで、当時は「原作はパラレル・クリエーションという人なのか。外国人が原作担当の漫画なんて珍しいな」と素で思っていた。(続く)

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