「みんな ちがって みんな いい」
金子みすゞの詩が好きです。
彼女の詩はとてもやさしさに溢れている。
彼女の生活はそんな楽でもなかったろうに
こうした深みのある詩ばかりが遺せるとあっては人生捨てたもんじゃないと思える。
彼女の哀しい命の閉じ方を見るにリアルにおいて苦を楽にはできなかったでしょうが
それでも救済はなされたのかもしれません。
さて この主題は そんな金子みすゞが遺した詩のなかで ぼくが一等惚れ込んでいるフレーズなのですが、今日はこの思いを「子どもの絵」に託して 話してみたいです。
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子どもの絵こそまさに
「みんな ちがって みんな いい」です。
基本的に 嫌な気持ちにさせる絵は ありません。しかし残念ながら例外もあって、これは「子どもらしい」という限定付きになります。
最近とみに 大人顔負けの嫌らしい絵が増えてきました。
子どもの絵の何が素晴らしいかって それは邪心のない感じたままのストレートな表現でしょう。
なのに情報過多の影響のせいで幼少から 「こんなん描いとけば褒められるやろ?」みたいな裏側まで気にするようになって みるみるダメな子どもの絵が増えている。
こう書くと 子ども向けの絵画教室をしようとしている人間の言葉とは思えないかもしれませんが、どちらかというとぼくはアンチ指導派なのです。
できることなら純朴無垢な子どもの心のまま絵を育みたい。
支援者はデザイナーであるべき との主張は、この邪心に歯止めをかけるための対抗策に過ぎません。
「こんなん描いとけば褒められるやろ?」的な描き方をする子どもに対して「もっと自分に素直になりましょう」と全部消しゴムで消さずに、良いと思える部分だけ残したりしてデザインを加えていく。それで良くなった絵を自分に見せて、らしさを取り戻していく手法です。勘が鋭くスグに子どもに戻れる子は、もうそれ以上の支援は必要ない。逆にまだ足りないなと思えば消しゴムをかけ続けていくことになります。
だいたい何も知らない子どもがはじめから大人顔負けの絵を描くなんて 誰かの真似でしかないので 熟成しません。ヘタに「似てる」「~っぽい」「上手い」と大人が褒めるから図に乗ってどんどん 嫌らしい絵を描くようになる。
「みんな ちがって みんな いい」なのに「みんな おんなじ (だから)みんな だめ」になってきているという危機感があります。
嫌らしい絵が上手くなっても ぼくはやっぱり嫌らしいままだと思うんです。
スタートが一番 大切ってことですね。
とはいえ放っておくと やっぱり誰彼大人になっちゃうんですが。。