この本(濱野ちひろ『聖なるズー』、集英社、2021年)は動物性愛者についての本です。しかしそんな難しい話では無く、作者の濱野ちひろさんが実際にドイツへ行き、ズーと共に過ごす中で感じたことを書いた本です。
僕がこの本を買ったきっかけはYouTubeで紹介されていたのを見たからです。そこで「動物性愛者」というテーマに興味を持ちました。
性に興味あるな、って話は他の記事で書いたのですが、その理由はすごく個人的なもので、そこから派生していって「性欲」なり「性別」という大きな概念にも興味を抱きました。
なので「動物性愛者」もあくまでトピックの一つとしか思っていませんでした。しかしこの本を読了したのち、大切なことに気付きます。それは以下の感想の後半で。これから備忘録のための感想をただ書いていきます。ネタバレあります。
眼差しの違い
動物のことをペットではなく、パートナー、我々と対等な存在だと考えています。しかし多くの人は動物を「愛玩動物」と捉えています。その眼差しは子供扱い、つまり知能が自身より劣ったものとしてのものです。
これは非常に実感できます。僕はペットを飼っていないですが、知り合いの子の母親が犬を飼った理由が「子供は大きくなったら家から出て行くけど、犬は出て行かないから」だそう。これはまさしく子供扱いしている証拠ですね。それが良い、悪い、という話では無いですが。下等に扱う者と対等に扱う者、どちらが忌み嫌われているのか、考えさせられます。
という表現も面白いです。確かにそうだ、と急に自分事になります。しかしズーは動物にも性欲はあると言います。同じ生き物への眼差しなのに、潜在的な意識の違いで見方が変わるのは面白いですね。
という言葉も対等に見ているからこそのものだろうと思います。
言いやすさと言いにくさ
パッシブだからこそ、自分はいつでも被害者になることができるからこそ、多少なりとも大きな声で話すことができる、と筆者は言います。動物性愛という後ろめたい事柄に関与しているのは同じなのに。
それは動物性愛に限った話では無いと思います。それは同性愛だって同じで。自分は異性愛者であり、同性愛者の人と交際し、別れた過去があります。僕はその経験から色んなことを学び、作品にしたり、こうして記事にしたりしています。しかしもし仮に自分が同性愛者というマイノリティーだとしたらどうだろうか、と考えます。こんなに大っぴらにできるのだろうか、と。大っぴらにできるのも自分が「被害者」であると心のどこかで思っているからではないか、と考えてしまいます。
という言葉がまさに言い得て妙。
他人がものすごく重たく感じるものを、僕に少し分けようと思ってくれたものを、僕は「あくまで他人の物」とすぐにでも投げ捨てられるスタンスで受け取っていたのではなかろうか。僕はそれを話のタネ、エンタメのタネとして扱ってしまっていました。それにすごく悲しくなり、罪悪感を抱いてしまいました。
そう思ってからからこの本を他人事でなく自分事だと思えるようになりました。
この表現はものすごく素敵だと思います。そんな素敵なプレゼントを贈りあった関係をもっと大事にしていこうと思います。
愛とセックス
これは非常に同感です。逆に悪い関係だと愛とセックスは一致しない、というのも容易に想像がつきます。頭のオーガズムの方が、個人的には高尚だと思うけど、身体のオーガズムもセットで感じることができると尚良いよね。
面白かったところ
クスリと笑えたところや興味深いところを。
「同性愛」ってドイツ人が生みの親だったんですね。
性暴力に限らず、「傷は傷のまま」というのは非常に良い表現だと思います。自分もそう思うし。無理に治そうとしても治らないしね。
括弧つきの愛、なのも著者の批判的な目線を感じます。
動物という、こちらがしたことに対して100%で返してくれる存在を求める気持ちはわかります。しかしそれは代替ではないんですね。
以上感想でした。非常に良い本に出会えました。僕の考えを変えてくれるものに出会えたので、オススメしてくれたYoutuberさんに感謝です。