教養厨には引導を渡せ
「教養として知っておきたい○○」「教養がない」「これは教養だよ」
世の中にはずいぶんと教養が多いことで(笑)
ことあるごとに教養の有無を詰ってくる。そういうお前は「教養」とやらはあるのかってんだ。
なぜ私がこんなにも教養という言葉を毛嫌いしているのか。
それは近年の教養は「常識」の言い換えになっているからだ。
教養とは
さあ言葉を紐解いていこう。「教養」の意味を取り敢えず3つの辞書で調べてみた。
辞書によって表現の違いはあれど、いずれにも共通して見られる意味は「知識」であること。しかし知識の深さに関しては『漢検漢字辞典』にしか記されておらず、広さについては『新選漢和辞典』と『漢検漢字辞典』に記されている。
そこで、私なりにこの記事における「教養」を再定義したい。「教養」は「広く学問や芸術などから得る考えや知識を身につけた状態。ただし両者間あるいは多数他者に対してその考えや知識の量、質的差異が見られ、且つこの状態を考えや知識の量、質が劣っている方がその差異を指摘した場合初めて生じるもの」であるとする。また、ここで言う「劣っている」は「量、質」が相手の方が優れていると片方が自認している状況を示している。
教養はチー牛
昨今使われる「教養」にはいくつか気持ちの悪いところがある。
1つ目は「用いられる文脈」だ。本来の教養の意味は大まかに言えば「広く学問的知識を身につけた状態」であり、これは理想的な姿だろう。このような意味において「教養」という語はある種の尊敬語として用いられる。
例えば「○○さんは教養があってすごいですね」「彼は教養があって博識なのにひけらかさない性格なのが良いよね」のように相手を高める文脈において用いる。そして「教養がある」と言われた方は「いえいえ」「え、そう?やったー」など反応は多種多様あるだろうが、大抵謙遜か素直に喜びを示すだろう。
だが最近は「○○は教養がない」「こんなことも知らないの?教養だよ」
などのように相手を貶める文脈で使われているように思われる。もはや侮辱語、あるいはマウントをとるためのワードと化している。
このように使い方が悪い方に変遷してしまった言葉はいくつもあるだろうが、1番卑近な言葉は「チー牛」だろう。
「チー牛」、この言葉は元々三色チーズ牛丼を表していた。しかし、そこにかの有名な眼鏡をかけた少年の絵が付随されていた。これによりチー牛=眼鏡をかけた芋臭い少年、所謂陰キャを指すようになった。つまり、元々は牛丼屋の1メニューに過ぎなかったのにいつのまにか悪口へと変容してしまったのである。尚私は陰キャではあるが所謂チー牛ではない。眼鏡をかけていないから。
そんなもの「教養」であってたまるか
2つ目は明らかに「教養」ではない点だ。さきに述べたように本来の意味の教養は「知識を身につけた状態」であって「知識そのもの」ではない。
だが言葉というのは時代と共に変化していくものでもある。例えば「姑息な」という言葉がある。これは「姑息な手段」「姑息な奴」のように「ずる賢い、せこい」のニュアンスで用いられている。しかし、元々の意味は「その場しのぎの」という意味であり、付け焼き刃のようなニュアンスであった(というか今もそう)。しかし、前者の意味で用いられる事が多すぎて本来の意味で用いられている例の方が見なくなってしまった。他にも「敷居が高い」などもその一例である(現:見分不相応、元:気まずい)。
さて、話を戻すと言葉の意味は移ろいゆくものなので教養の意味が本日のような「常識」に近いニュアンスで用いられていることもまた仕方のないことなのだとは思う。
しかし、仮に本日の意味で用いるにしても本の題名で見られる「教養としての○○」という書き出しはあまりに下品だ。
この記事を書いている4月18日25時現在、「教養としての 本」と検索するとそれはもう見事な御「教養」が出てくる。財政や機械学習に始まり、イギリス貴族や発酵、牛肉、挙句の果てには射精まである。
さすがに目を疑ってしまった。財政や機械はまだ分かる。だがイギリス貴族あたりから怪しくなり、発酵や牛肉など多くの人が知らん界隈が顔を出し、最後に至っては致している性教育にまで手を出している。
ここまで来ると逆に教養のある人間でないと本に手を伸ばそうとはしないだろう。
思い出して欲しい。最近の「教養」は「常識」の言い換えになっている。しかし、実際本屋で売りに出されているのは多くの人が知らない豆知識程度の界隈だ。つまり本当に興味のある人間でないと手を出せないし出さないので、初学者に対してはむしろ逆効果とさえ思える。
絶対的か相対的か
それでもこのような「教養シリーズ」が絶えず刊行されているのは、「教養」欲しさに手を出す馬鹿が絶えないからだろう。
勿論、純粋な関心のもと、何となく興味が湧いたなど自身の知的好奇心に依拠して手を出したのならそれは素晴らしいことだ。その世界に居続けようとすぐに飽きてしまおうと良い経験となるだろう。
しかしだ。「教養」欲しさ、換言すれば他者より秀でたい、「常識」が欲しいというしょうもない気持ちで手を出すのは話が変わってくる。
まず「知識」を得てもそれは他人より優れていることを必ずしも意味しない。先ほど量、質的に劣っている云々という定義を書いたが、この「劣っている」は片方が相手の方が優れていると認めている、といったようにリスペクトが生じている。だが、「教養」欲しさという言葉はそれを意味しない。その逆で片方が一方的に相手の方が知的に劣っていると見なすという侮辱の意味が込められている。
つまり絶対的優位ではなく、相対的優位なのだ。絶対的優位は文字通り「絶対」、簡単に言えば天才だ。誰かと比べるまでもなく「優位」。一方で相対的優位というのは相手がいて、自分と比べた時に初めて生じる差異を示す。
「相手がいて」、これが肝だろう。
「常識」とは何か。
面倒臭いので一冊からのみ引用するが、皆が持つ常識のイメージは私を含め大体こんなものだろう。この「皆そう思っているだろうというイメージ」自体もある意味常識である。
少し話が逸れたが、要するに常識は「普通の人がもっている、またはもつべきあたりまえ」のものであり、他者の存在を前提としている。従って、「常識」とは極めて相対的な知識や見解を指し示しているのである。
それにも関わらず常識の意味は普通の人がもつ「べき」、「あたりまえ」のものであるとしている。これではまるで絶対的なものがあるように見える。だが「あたりまえ」こと常識なぞ環境が変われば当たり前のようになかったことになる。
パラダイムシフト
有名どころで言えばインドをはじめ海外の飲み水はとにかく汚い。日本人が飲めばほぼ確実に下り竜。電車は時間を守らず、欧州の美術館は平然とストライキをする。私の友達はこれのせいで美術館に入れなかったそうな。
日本ではまずあり得ないだろう。だが、海外では(厳密にはその国にとっては)この有様(噂)が常識なのだ。要は、一定の範囲内から抜け出したら「常識」は効力を失い、無秩序にも近い世界に放り込まれることになる。
それではどうすればこの無秩序に対抗することが出来るのか。まず初見で完璧に対応することは不可能だ。よほどその国の内政と文化に博学でなければ難しいだろう。
そしてこの博学さこそ本来の意味での「教養」である。その人に備わっている広い文化的知識が役に立つ(場合がある)。勿論全く役に立たない可能性も高い。海外に行く際に魚に関して甚だ詳しくても仕方ないだろう。
でも海辺に行けば輝く可能性が出てくる。これもまた環境が変わったことの表れだ。
このように場所を変えれば華麗な手のひら返しを見せてくれる「常識」君、君の手首は恥を知らないのかね。
さあまとめると現代の「教養」こと「常識」は同じコミュニティに属する他者がいるときに初めて生じる。しかし「外」に出た途端それまでの常識は役に立たず、ただの「知っていること」になる。無知よりかはマシだろうが、いかんせんマウントをとる相手がいなくなってしまうのでそれは教養には成り得ない。
だが、その「知っていること」が地道な学びから蓄積してきた確かなもの、本来の意味での「教養」であるならば落胆する必要はない。それは貴方自身を形作る血肉であり、他者のためのものではない。
大切なものは目に見えないとはよく言ったもので
真の教養は他者の目を気にすることなく当人の知的好奇心に依存して行われる学習の積み重ねの結果であり、普段は目に見えることではない。
ただそれを「当人」よりも劣っていると自認した人間が指摘して初めてその差異が両者間で現れ、その差を教養という言葉を宛がって説明しているに過ぎない。
そうである。教養は提供する側が用いる言葉ではないのだ。極端な話教養なんてものは存在しない。ただの個人の状態である。ただその状態の他人よりも優れている様を教養のある人と言い表しているだけだ。
現代の「教養」に騙されるな。それは「これ知ってる私・俺かっけぇ~」という公然で自慰行為をする露出狂に過ぎない。近寄るな。
尚、この文章は自戒の意味も込められている。
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