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自分が見ている世界、他人が見ている世界
最近になって、自分と他人の認識の違いというものを強く意識するようになった。
人間は、自分の認識できるものだけを見て生活している。
例えば、隠れミッキーが沢山潜んでいるカーペットの上に立っているとする。
このとき、
ミッキーの顔の形を知っているひとは、簡単に隠れミッキーを探すことができる。
しかし、ミッキーとは何か、顔はどのような形なのかを全く知らない人は
カーペットの模様から隠れミッキーを探しだすことは一向にできない。
このように、物質的に見えているもの(カーペット)は同じでも
ミッキーへの認識が異なると、見えてくる世界は全くことなるわけだ。
前者は隠れミッキーが沢山いるカーペット、後者はなんだか○が3つ集まった模様が沢山あるカーペット
といった具合に。
世の中には、このような認識ありきで成り立っているものが無限にある。
というか、世の中という物自体が認識であるともいえる。
だって、「世の中」という物質は存在しない。
そして、人間一人一人に関しても
それぞれにそれぞれの認識を持っている。
「電車は並んで待つものである」
という認識の人もいれば
そうでない人もいる。
「学校の教室を生徒が掃除するのはいいこと」
という認識の人もいれば
「掃除をする人の仕事を奪っているから、よくない」
という人もいる。
しかし、このようなことを、僕は今までいまいち理解できなかった。
人間に見えている世界は全て同じで
全く同じというわけではないが、だいたい同じような考え、認識を持っていると思っていた。
だから、自分の考えていることは、最終的には伝わると思っていたし
理解されるとも思っていた。
逆に、自分も他人のことを理解できると思っていた。
特に、身近な存在である親や兄弟、友達などに関しては。
しかし、実際は全くそうではない。
自分ではどう頑張っても理解できない人はたくさんいるし
それは身近であろうと、初対面であろうと全く関係がない。
また、立場が上だろうと下だろうとも関係がない。
そして、
なぜだか分からないが、他人と自分の認識が異なると
自分を否定されたような、なんだか悲しい気分になっていた。
しかし、これは今考えれば本当にナンセンスというか、非合理的すぎると感じる。
ただ、自分と他人が見えている世界が違うだけ。
このことを前提にものごとを考えていくと
他人と意見が違っても、全く問題のないことだと思えるのではないか。
自分には赤と思えるものが、他人には青に映っているのである。
しかし、このことは少なくとも日本の教育のような
全体主義的な認識のもとで生活をしてきた人達にとっては
すぐに理解できないこともあるのではないか。
僕も、このことを分かったのは、大学に入ってからである。
大学に入って、今までの全体主義的な教育からいったん距離を置くことができて初めて理解できるようになった。
他人と自分の認識が異なることを理解すると
人間関係に悩むことも少なくなるんじゃないかと思うし
自分の認識、他人の認識両方を尊重できるようになるのではないかと思う。