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ゆとり教育が教えてくれた不都合な真実

「結果が出なくても、頑張ったことを認めてほしい。」

職場の若手からこういった意見がよく聞かれるそうだ。

僕がフォローしている界隈の人たちからは、この手の意見はボロクソに叩かれていたが、僕はこの発言をみて、ふと思い出したことがある。

ゆとり教育で導入された”絶対評価”というのものだ。

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ゆとり世代の定義は1987年〜2004年生まれ、すなわち20歳から37歳該当するらしい。

この定義で考えると、僕もしっかりゆとり世代に該当する。

円周率は3.14で習ったが、小学校は途中から土曜日が完全休日となった。

ゆとり世代の初期、まさに制度の移行期であったのだろう。


そして、当時の中学校では、通知表が相対評価から絶対評価へと変わった。


僕らよりひと世代上までは、どの中学も通知表は相対評価だった。

相対評価は5段階評価を一定のパーセンテージで振り分け、集団の中で自分がどの群にいるかをはっきりさせるシステムである。

レベルの高い集団にいればそれだけ良い内申点を取ることが難しくなる。

それがゆとり教育になり、絶対評価が導入された。

他の生徒との比較ではなく、「その人の頑張りや到達度で評価しましょう」というシステムだ。

なるほど確かにいい制度に見える。

当時中学生だった僕は、どこか腑に落ちない部分もあったが、内申点が爆上がりしたため(みんな大体上がる)さして気にも留めていなかった。

中学3年の冬が明け、高校受験の季節が来た。


僕の地元は田舎ということもあり、勉強が得意な人たちは、皆同じ地元の公立高校への進学を目指す。

高校受験では通知表の内申点当日のテストの点数が合算され、総得点を競う。

内申点は絶対評価の導入以後、進学校を受験するようなレベルの生徒はほとんど僅差のオールAの状態だ。

そんな状態で高校受験が行われた。

当たり前だが、受験は蓋を開けてみれば、ただの相対評価だった。


試験の点数と、絶対評価に基づく僅差の内申点が、ただただ厳密性をもって序列化され、合否の結果として反映された。


僕の友人の中には、申し分ない内申点を誇っていたが、結局わずかに総得点及ばず落ちてしまった者もいた。

絶対評価に基づいた内申点も、結局最後は相対的に評価される。



受験という競争の前では個人のお勉強の頑張りや到達度は何の価値も持たなかった。


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世の中の全てのポジションには当たり前のように定員があり、そこにはシビアに結果が求められる。

絶対評価で充分に合格の資格があったととしても、関係ない。

絶対評価は、個人が競争に追われることなくのびのび学べるといえば聞こえはいいが、結局肝心なところでは他人と争う現実から逃れることはできない。


そして、それは高校受験以後でも全く同様であった。


大学受験、国家試験、就活。


ありとあらゆる場において相対評価の競争が求められた。

そして医者になってからも症例の経験数、専門医試験、論文や学会演題の採択、すべてにおいて他者との競争は避けられない。

競う集団がどんなにハイレベルになってもそれは変わらない。

競う相手が多ければそれだけ落第するものが増える。

結局はゆとり教育で導入された絶対評価が中学校の生活以降で真に意味を持つことはなかった。


社会は残酷なまでに競争と相対評価に溢れている。

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「結果は出なくても、頑張ったことを認めてほしい」

なぜこの考えが社会で通用しないのか?

勘の言い方は気づいてしまっているだろう。

「頑張り」は自分の中の身勝手な絶対評価に起因するからだ。


それを持ち出すことは、高校生以降の大人には許されない。


大人の世界では相対的に評価可能な「結果」をだすことが最低限必要だ。



そしてなにより、真の社会は、受験とは比べられないほどシビアな相対評価の世界が広がっている。

自分自身の消費行動を振り返ってみれば、よくわかるはずだ。

「1円でも安いところで買おう。」
「口コミの評価が1番高いレストランに行こう。」
「より知名度のあるブランドで買おう。」

金が絡む大人の真剣勝負の世界では、頑張りは何の価値も持たない。

それどころか、十分な結果を出しても通用しないことも日常茶飯事だ。

「ベストを尽くし、結果は出した。それでももっと結果を出した奴がいた。」

求められるのは、このレベルの戦いである。


医療の世界でも同様だ。

自分や家族が病気になったことを想像してみて欲しい。

誰しもが病院の中で1番経験と実力のある医師に診てもらいたいし、1番手術の上手な医師に執刀してもらいたいと思っている。

ヒトは真剣に大勝負を打つときは、必ず比較対象を入れて、相対的に評価を下す。

そんな残酷で無情な社会に入った上で、ろくに仕事もできない最下層の歯車である若造が、

「結果は出なくても、頑張ったことを認めてほしい。」

これは全くもって通用しないのである。

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そしてこれは副業についても同様だ。

今、多くの人が、その先を走るクリエイターコンテンツホルダーの方々に憧れ、目指し、追いかけるように発信を行なっている。

note100記事。5分ラジオ。

モチベーションの高い人たちが本業を疎かにせず、わずかな隙間時間を何とか活用しコンテンツの積み上げを行なっている。

これはスキ❤️の数を競う競争ではない。

むしろ共に成功を目指す仲間である。

一方で、これだけの数のコンテンツが上がれば、そこにはどうしたって可処分時間の奪い合いという競争の側面が出てきてしまう。

読まれる人、読まれない人。

聴かれる人、聴かれない人。

売れる人、売れない人。


挑戦する人達は目に見える形でこれらを突きつけられることになる。


僕は嫌われるのを覚悟で敢えて言おうと思う。


僕はコンテンツ発信の世界を勝ち抜いて、金を稼ぐという結果を残したい。

このハイレベルな集団の中で自分を際立たせたい。

自分が読んで面白いと思うものを書いて、多くの人にお金を出してでも書いたいと思ってもらいたい。

それらの発信を元に、今は雲の上にいるような人達ともっと対等に話ができるようになりたい。



ゆとり教育は大切なことを教えてくれた。




競争を勝ち抜いて結果を残すには、「頑張り」という身勝手な絶対評価を脳内から捨て去り、無慈悲な相対評価に挑み続ける必要がある。



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