映画『胸に輝く星』("The Tin Star.")
今日(20231013(金))、NHKBS3chで映画『胸に輝く星』を放送していました。出演は、ヘンリー・フォンダ、アンソニー・パーキンスそれにリー・バン・クリーフほかです。
私は、小学生の頃、この映画をテレビで見た記憶があり、以来ずっと覚えていました。俳優も、ヘンリー・フォンダとアンシニー・パーキンスだけは覚えていました。この映画が記憶に残ったのは、①インディアン(ネイティブ・アメリカン)を悪者扱いしていない。②ベテランが新米を指導し、新米が成長する物語(師弟物)であること。③説教臭くないので観た後に嫌な気持ちが残らない。からです。
賞金稼ぎで元保安官のヘンリー・フォンダは、臨時保安官アンソニー・パアーキンスが新米過ぎて、長生きできないと感じ、保安官としての仕事を指導します。
たしか、拳銃の練習のときにリー・バン・クリーフが出ていたと思うのですが、はっきりとは分かりませんでした。
物語は師弟物として分かるのですが、アンソニー・パーキンスが治安を守ろうとしている町の住民の「烏合の衆ぶり」がなんかいけ好かなくて、正直「こんな町、守る価値あるかね?」と思いました。
でも、「正義は住民が求めるから守られるべきなのか、はたまた正義は守らなければならないものとして住民に示される掟なのか。」と考えたとき、この映画では後者であると言いたいのではないかと感じました。
アメリカ西部では、裁判所が常置されている町はあまり多くなくて、判事が巡回してきて、あっという間に裁判して、殺人犯は町の広場に立てられた絞首台で処刑される。という、あまりに形式的なもので、映画やテレビドラマでは「裁判してもらっただけありがたいと思え。」と被告人に言わんばかりです。
また、そのあっという間の裁判も、ヨーロッパ中世の魔女裁判と似ていて、客観的証拠とか目撃証言の信憑性など吟味されているとは思えません。
もっとも、同時期の日本と違い、当時のアメリカ国民の識字率は高くなかったでしょうから、そういう「字は読めないけど、銃は使える。」という連中相手に正義を守るためには、形式的裁判でも仕方ないのかもしれません。
私が、この映画を好きな理由として、「インディアン(ネイティブ・アメリカン)を悪者扱いしていない。」と上に書きましたが、この映画は「修正主義西部劇映画」と呼ばれるものだそうです。この用語の詳細はともかく、それまで、やれアパッチだ、やれコマンチだ、と騎兵隊や入植者が彼らにどんどん銃撃する西部劇映画を修正するもののようです。ほぼ同時期にマカロニ・ウエスタンが大人気になったことを思うと、「観客は、修正主義西部劇映画を好むの傾向にあるのかな。」とも思います。(マカロニ・ウエスアンもインディアンは登場せず、白人対白人とか白人対メキシコ人という構図です。)
なお、ヘンリー・フォンダは当時の大俳優で、映画『チャイナ・シンドローム』のジェーン・フォンダと映画『イージー・ライダー』のピーター・フォンダの父親です。
アンソニー・パーキンスは、映画『サイコ』に出演しています。若くて細くてハンサムで、今ならキアヌ・リーブスの系統の俳優です。
リー・バン・クリーフは、日本ではマカロニ・ウエスタンの俳優として有名です。たしか、日本のサントリーウイスキーのテレビCMにも出演していました。かなり渋い俳優で、今ならトミー・リー・ジョーンズの系統ということになるでしょうか。
西部劇では、簡単に拳銃やライフル銃を発砲しますが、当時は弾丸は鉛が剥き出しでした。西部のガンマン達は、弾薬を素手で扱っていたでしょうから鉛毒に侵された人が多かったろうと思います。
こんな風に考えると、映画を楽しめなくなりますね。
以上
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