○○するべきという思考
私は昔から母と仲がいい。と、思っていた。性格が合うとか似ているではなく理解者として、今も頼りにしている。だけど30歳を過ぎた頃から小さなすれ違いというか、会話をしていると「そこまで、言う?」と感じるようになった。嫌悪感を覚えるとまではいかないけれど、母の確固たる「○○であるべき(するべき)」に疲れることが次第に増えている。
もちろんそれに対して強く反抗はしない。私はとにかく、考えを他人に押しつけることが嫌いだ。もちろん思いはある。しかし他人へ「こうしたほうがいい」なんて、おこがましくないか?と、常に考えてしまう。だってきっとその人にはその人の、正解があるでしょう。それを選べるのは本人だけだ。こういう性格に対して、「冷たいね」「親身じゃないね」と言われたこともあった。そうだろうか。距離感が近ければ近いほど、親身というのは違う気がする。
母はどちからというと厳格な家の育ちだ。お嬢さま、という言葉がしっくりくる。他人との付き合い方も私とは比べものにならないくらい上手い。ただそういうこと自体が好きというわけではなく、本人のポテンシャルが高いからやれているだけで、家族はしばしばその愚痴のはけ口にされた。
少し上から目線になってしまうが、母なりに柔軟な考えを持とうとしているのは見て取れる。60代ということもあり、変わりゆく時代の中で若者世代の思考を、理解とまではいかなくとも知ろうとはしている。だけどやっぱり母の経験は絶対的な自信なのだ。話を聞きつつも「こうしたほうがいいのに」と、溜息混じりにこぼす。私はそんな母を横目で見ながら、ああこの人は、世間体を人一倍気にしながら私を育ててくれたのだなと気づいた。
否定するのは簡単だ。別にその人の考え方なんだからいいじゃん、こういう考え方もアリだよ!と言っても母は怒らないだろう。だけど私は結局言わない。「まあね」と軽く相づちを打つのが常だ。口にはしないが、今まで数え切れないくらい苦労があったであろう母に、私は自身の考えをぶつけることなく心へしまいこむ。
今時は色んな考え方があるから・・・。
そんなことはきっと、母も分かっているんだろう。
心へしまいこんだ言葉を、ふとした時に思い出す。何が正解かなんて、やってみなきゃ分からないのになぁと苦笑する。それでもって、私は何か物事を決めるときにあんまり理由をつけない。だから周囲に「どうしてそうしたの?」と聞かれると、たいていまともな答えを用意できない。何となくその方がいいかなと思って、と半笑いで話す私。こいつはなんて適当な人間なんだと思われているに違いない。
多様性という言葉が多く使われるようになりつつも、根強く残る○○するべき思考。そりゃ人に迷惑をかけるようなことは論外だけど、押しつけるのもほどほどに。案外身内ほど言いづらかったりするのも、難しいところだったりしてね。そしてこの歳になって、また親との距離感を考えることになるとは思わなかった。離れてそれぞれの生活になって、私も価値観が変わったのだろうか。
写真は社会人になったときに母からもらった腕時計。十年以上使用しているお気に入り。外出する際にこの腕時計を忘れると、少しソワソワしてしまう。