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映画「正欲」で唯一表現している〝普通のこと〟

誰かと深い信頼で結ばれている、そんな関係を築いた記憶がない。35年生きていて、たぶんそれが私の最大のコンプレックスだ。
昔から割と人見知りする子どもではあった。高校に上がると、常にグループ行動を取りたがる同級生たちに嫌気が差し、どっちみち苦痛ならばと単独行動を選択するようになった。大学に行くと途端に楽になり、予定が合う子とは時間を共有し、そして卒業を境に自然と交流が途絶えていった。
友人は心から信じられる子がひとりかふたりいればいい。10代の私はそんな風に思っていたけど、会社でそれは通用しない。「変わってるね」と言われることが多かったので、就職してからは「ちゃんとした人」に見えるよう努力していた。毎日外出してお客様に会うし、他部署の人ととも連携する仕事だったから全方位に「変な人」と思われないように必死だった。そのおかげか、初対面の人に「感じが良くて常識がある」と思ってもらえる技術は身に着けた。
今はほとんどデスクワークをしている。私の所属しているチームの人たちは距離が近くて、高校時代を思い出す。

そして最近、プライベートである講座に通うようになった。そこで驚いた。周りの受講生のコミュニケーション能力の高さにだ。もちろん全員一律そうではないと思うけれど、講座を受けるまで初対面だったはずなのにいつしか積極的に人に声をかけ合い、友だちのように気軽に話している人々を見ると、「自分はなんて貧しいのだろう」と思う。うらやましいのなら自分も話しかければいいのに、なんとなくそれができない。チャンスがあれば話すことはできるけれど、自分から行く勇気がない。
この間は、その講座から派生した勉強会に今度参加することになり、フェイスブックのアカウントを作った。試しにスマホに入った連絡先をインポートしたら、仕事もプライベートもごちゃまぜで「知り合いかも」が出てきた。息が詰まりそうになって、あわてて設定を変えた。

ここまでを渋谷の映画館のロビーで書いてすぐ、映画「正欲」を観た。「恋愛して、結婚する」「ありまのままの自分で安心して社会を生きる」ということが困難な人たちの物語だ。

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横浜に暮らす検事の寺井啓喜は、息子が不登校になり、教育方針を巡って妻と度々衝突している。広島のショッピングモールで販売員として働く桐生夏月は、実家暮らしで代わり映えのしない日々を繰り返している。ある日、中学のときに転校していった佐々木佳道が地元に戻ってきたことを知る。ダンスサークルに所属し、準ミスターに選ばれるほどの容姿を持つ諸橋大也。学園祭でダイバーシティをテーマにしたイベントで、大也が所属するダンスサークルの出演を計画した神戸八重子はそんな大也を気にしていた。

(「正欲」公式サイトより)
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※以下、物語の核心に触れるネタバレを含みます















作中、「普通」「普通じゃない」という言葉が随所に出てくる。「普通じゃない」枠の中にいる夏月は、「地球に留学してる気分」だと桂道に心中を吐露する。彼らが欲望を向けている対象は、自分たちを愛し返してはくれない。だからこそ孤独で、時に生きていけないほどのつらさを感じている。

「ずっとこうなんだろうか」という私の不安は、桂道の「明日が来てほしいと思わない」とは明確な差があるし、この作品は「普通じゃない」ことを肯定しているとも思わない。啓喜の「(子どもを傷つけるような)悪魔のようなやつがこの世にはいる」という言葉には甥と姪がいる自分にとっては頷く部分もあり、実際にそのことを物語に組み込んでいるあたり、私が受け取ったメッセージは「あらゆる欲望は存在する。欲望そのものを〝ありえない〟ということはできない」ということだけだった。

希望があるとするなら、桂道と夏月がこの世を生き抜く「共犯者」として連帯し、恋愛感情とは違った土壌で強固なつながりを築いたことだろう。夏月は桂道と結婚した後、「ひとりでいた頃には戻れない」と言った。〝普通〟を問いかけるこの作品で唯一、その定義にあてはめている「人間が人間を求めること」。今のところ、私には恋愛感情に等しい、特定の「誰か」「何か」に向かうような欲望は見当たらないけれど、「誰かとつながりたい」という欲はこれからも持ち続けていいのだと肯定された気がした。コンプレックスは、つまるところ欲望の裏返しなのだ。

恋愛しなくても人は人とつながることができる。そして幸せを感じることもできる。
それが希望になるかどうかは、たぶん私次第なのだ。


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