【読書感想文(2)】ホメロス『オデュッセイア』
古代ギリシアの吟遊詩人ホメロスの作とされる本作は、『イリアス』の後日譚として、トロイア戦争に勝利した智将オデュッセウスが故国イタケに帰還するまでの苦難に満ちた10年間を描いている。
まず驚いたのは、訳者の松平千秋氏も解説で指摘している通り、前作が英雄アキレウスの怒りを主軸とした直線的な物語構造であったのに対し、本作は物語の時空間が複雑に入り組んだ複線的な物語構造を形成していることで、素人目にも語りのテクニックの上達を感じる。
「えー、そんなの前作の反省を生かして作ってるんだから当たり前じゃん」と言うなかれ。実際、これってかなり凄いことだ。例えば、映画黎明期の場合だと、普段我々が観ているような複雑な物語構造の映画が作られるようになるには、映画の発明から実に20年余りの歳月と多数の映画人の試行錯誤を要した。言い方は悪いが、世界中の映画人が何千もの数の映画を量産していたにも関わらず、20年もかかったのだ。
一方で、ホメロスが『イリアス』の何年後に本作を作ったのかは知る由もないが、現代で言うところの伏線であったりフラッシュ・バックなどの手法が随所で駆使されている。もしホメロスの独力でここまで語りの技術を深化させたんだとしたら、それはもう凄いとしか言いようがない。
まぁ実際のところ、当時はホメロス以外にも数多くの吟遊詩人がいて、『イリアス』『オデュッセイア』を軸とした「叙事詩の環」と呼ばれる一連の作品群が作られていたそうだから、厳密にはホメロス一人ではなかったのかも知れない。また、そもそもホメロス自身が本当に存在していたのかどうかさえ諸説あるのだから、もしかすると全くの別人か、よくて息子や孫がその意志を継いで本作を作り上げたなんてことも、ひょっとしたらあるかも知れない。
個人的には、やはり老年のホメロスが自身の集大成として作ったと考えた方がロマンチックで素敵だと思うが、いずれにせよ作者は大吟遊詩人だったに違いない。
閑話休題。本作は上巻と下巻で全く趣が異なり、上巻はオデュッセウス一行が冒険を繰り広げるファンタジー調であるのに対し、下巻は正体を隠したオデュッセウスと悪逆な求婚者たちとの息もつかせぬスリリングな展開が繰り広げられる。どちらも前作よりエンターテインメント性を強く感じた。
個人的な見どころは、オデュッセウスの乳母で女中頭のエウリュクレイアがオデュッセウスの正体を見破るシーンだ。
乞食に扮したオデュッセウスの足をエウリュクレイアが洗ってあげていた時、図らずも幼い頃に負った足の古傷に触れてしまったことで、その正体を看破するというシーンなんだが、この「触れる」という行為がもたらす皮膚の触覚的なイメージが、この場面に得も言われぬ説得力を与えている。オデュッセウスが正体を明かすシーンは他にもあるのだが、このシーンは何処となく映画的というか、映像が脳裏に浮かんでくるようで特に感動した。
映画といえば『オデュッセイア/魔の海の大航海』(1997年)という映画(厳密にはテレビシリーズ)がある。フランシス・フォード・コッポラ製作、アンドレイ・コンチャロフスキー監督という豪華製作陣で、十数年前に大学で映画とロシア語を学んでいたのでブックオフで購入したものの、一度も観ずにそのまま棚で眠っていたところ、本作を読了後に初めて鑑賞してみた。
結果、一部改変や省略はあるものの、かなり原作に忠実に作られていて、かなりオススメ。特に文字だけではどうしてもイメージの湧きにくい怪物スキュラやカリュブディスも造形化されているし、クライマックスとも言うべき大事な場面で「斧の穴に矢を射るってどゆこと?」って思いながら読んでいた想像力の乏しい僕にも分かりやすく描かれていて、非常に有り難かった。斧の柄の先っちょにある、壁のフックか何かに引っ掛けるための丸い穴のことね。
映像化されて一番良いなと思ったのは、カリュプソの島。エーゲ海の青い空を背景に、白石造りの浅いプールのような窪みが段々畑のように連なっていてる。そこでカリュプソの娘達が舞い踊るシーンは、アンドレイ・タルコフスキーかあるいはセルゲイ・パラジャーノフといった往年のソヴィエト圏の映画を彷彿とさせる詩的な美しさで、これにはさすがコンチャロフスキーと、『オデュッセイア』と全く関係のない文脈で図らずも感動してしまった。是非一度ご鑑賞あれ。
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