情報のシュガーラッシュを超えて
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冬の気候が完全にやってきて、もうちょっと風が冷たいなーって感じ。ジムの帰りがそこそこ冷たくて、そろそろマフラーも考えないといけないなーと思いつつ。一気に冷えてきましたよねぇ。。。去年、こんなに早くこんなに冷えたっけ?とか思いつつ。11月もあと半分かー。今年もなんかいろいろやったなぁと振り返りつつ。。。
情報のシュガーラッシュ。まぁ、シュガーハイともいうか?甘いものを一気に食べたときに頭がふわぁってなったり、或いは活動的になったりするような状態のことを指すわね。この情報版。というよりも、まぁyoutubeとかTwitterとか或いは他のSNS(他のSNSはほとんど触ってないから何とも言えない部分も多いんだけど)とかもそうなんだけど、基本的に情報が結構転がってんなーって思うは思うけど、すっごい加工されているから、なんというかめちゃくちゃカロリーが高いんだよな。すぐ疲れちゃうし、なんというかめちゃくちゃ私は飽きちゃう。動画ってあんまり情報量ないんだよねって私は思っちゃうんだけど。なんだけど、これを好きな人たちがいっぱいいるよーってそういう話。
そもそも、人間の脳って結構厄介な特徴を持ち合わせていて。基本的にめっちゃ怠惰なんだよね。だから、例えばフォーマットとか見せ方とかが統一されているモノに安心してしまう。なぜなら、そっちの方が情報処理する量が少なくなるからなんだよね。あと、同じような情報を正しいと思いたがる。これも怠惰であるからなんだけども、言ってしまえば、同じ処理経路を利用していると、その経路を正しい経路と認識してしまう傾向があるということ。気が付いたら、その情報が正しいかどうかを考える前に、これは何度も聞いた情報だから正しいんだ!みたいな、いやお前その判断のどこに正確性を測る指標があった?って冷静に考えるとなるんだけど、まぁならないんだよ。
そもそも、頭脳とか脳と呼ばれる臓器は、体の複雑な動きを司るために発達してきたのであって、思考に利用するにはまだまだ粗が多いみたいなことはよく言われている。脳の細胞というのは、いわゆる筋肉に近い細胞ではないか?みたいなことも言われていて、よく使う筋肉が大きくなりやすくまた強くなりやすいみたいな話と同じように、よく使う脳の細胞は強くなりやすい。強くなるということは、情報処理力が高まるということに外ならず、結果として、他の部分の脳の細胞をあんまり使わなくなっちゃうみたいなこともあったりする。実に怠惰な臓器なのだよ、脳は。
でも、一方で、そこの弊害みたいなものは本能的に察しているというか。まぁ脳というのは情報を蓄積する臓器でもあるから、例えば何か危険な状況に陥った際に判断を間違わないように、常にその判断のための情報を仕入れようとする傾向がある。これが、脳が怠惰でありながら好奇心・知の欲求という相反する作用を持っている理由でもある。
今回の兵庫県の選挙の話を上げるまでもなく、私たちは同じような情報を、同じようなフォーマットで目の前に提供されると、どんどんそれが正しい情報のような錯覚を覚えることが知られている。これも情報のシュガーラッシュと言っておこう。そもそも、SNSで流れてくる情報、特に政治の情報なんというものは、多くの人にとってよくわからないものなんだよね。そもそも専門家ですら、ひとつの法律を作るなんてことに1年2年と費やすことだってあるような世界、普通に週5、35~40時間働いているような人間たちに理解できるような話ではないはずなんだよ。それにもかかわらず、そうしたSNSによる無造作に流れてくる同じような情報、そしてそこにみんなが好むような判官贔屓や勧善懲悪、或いは一発逆転やお祭り気分みたいなものを混ぜ込んでいけば、砂糖を大量に食べてハイになっちゃうようなそんなものになってしまうのが人間なのよね。
なんかこういうことを書いていると、そもそも民主主義という仕組みであったり、自分の頭で考えよう出会ったり、つかそもそも教育みたいな話って本当に必要なんけ?みたいなお気持ちになってきたりもするんだけど、おそらくそれも、逆シュガーラッシュというか。シュガーハイを見て気持ち悪いーってなっちゃっての反動でしかないって意味では、シュガーラッシュのような反応のひとつなんだろうね。脳って本当にこういう構造的な情報処理は滅茶苦茶得意なので、逆にこういう処理しかしたがらないって側面があるんよなぁ。実に怠惰だ。
シュガーラッシュって本当に気持ちいいのはわかるんだよね。陰謀論とかもそうなんだけど、結局人間、物事を理解するって楽しいのよ。しかも、自分たちが大好きな判官贔屓とか勧善懲悪なんていう、一見誤解なんて起こりえないような当たり前すぎる解釈で理解できるような物語が現実にあったら、もうそれに飛びついちゃうんよね。それはとてもよくわかる。私だってそういう傾向があるからなぁ。
でも、SNSが流行り出したころから、私はずっと思っていたんだけど、情報が正しいって何のことを指すんだろう?というかなんというか。よく、個人個人の感覚よりもデータや統計のほうが客観的で信頼がおけるみたいな話があるけども、でもなーそもそもの問題なんだけど、データを100%客観視して抽出することもできないし、統計的な議論、仮に分散なんていうぱっと見、個人の解釈の余地が見えないようなそんな数字を扱うような議論であったとしても、それってあなたの感想ですよね?みたいな話ってめちゃくちゃあるんよ。これはどこまで行ってもそうみたいな話なんだけど、結局私たちは、解釈の余地がある世界に住んでいるというか、現実は解釈だ!っていう説もあるぐらい、私たちは言語と解釈の世界で生きている。ということは、100%客観的な正しさって、おそらくほとんど存在しない。帰納法だって、結局正しいと言えるのは、多くの人が同じやり方で同じ結果が出たので、概ね正しいようだがQ.E.Dだし。演繹法に至っては、そもそも仮説を作り出す段階で人の感性が入り込むのだから、どうやったってそこから導き出される結論が100%客観になることはないでしょうよ。ということは、結局のところ、情報は拡散し伝達されだす瞬間から、解釈という形で改変が始まり、正しいというものから外れだす。正しいではなく確度だと言いたい人もいると思うが私からしたら同義だ。一次的情報などというものはどこまで行っても解釈の余地がある。100歩譲って、何が起きたかを明確にする録音や写真、或いは動画というものがあったとして、どうしてそれが編集されたものでないと、一般の人が確認できるのだろう?よくわからないよね。
結局のところ、私たち一般人からすると、情報というものは必ず改変があって伝わってくるということを理解して、情報に触れることでしか、情報のシュガーラッシュからは逃れられないのかもしれない。でもどうなんだろう?踊る阿呆に見る阿呆、同じアホなら踊らにゃ損損だからね。シュガーラッシュに飲まれた方が得なのかもしれない。うんまぁ、そうだね。それが君の選択ならそうなのかもしれないんだよなぁ。
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