【vol.2】エネルギーという言葉が指し示す事柄と言語の効用

哲学界隈ではテセウスの船、という命題が存在する。
これは電車のたとえのヒントとなったものだが、概要を掻い摘んで触れる。
英雄テセウスが乗り込んだとされる船の部品を老朽化のため改修し長い年月をかけてオリジナルの部品がすべて交換されたとき、果たしてそれは
テセウスの船だということができるのだろうか。
という問いである。

哲学的界隈ではどうかは知らないが、一個人としてこの命題はあまり難解ではないと感じている。
電車の例で述べたようにそのものはそのものの奥に存在する「機能背景」までも、そのものの一部として語ることが許される。
展示された電車の背景が観測者群に認知されている限り、それは初めて電車を見た人間にとってもそれが電車となることができる。
テセウスの船の部品がひとつも現存していなかろうとテセウスの冒険と航路の時を思わせるという機能背景が効力を持っている限り、テセウスの船は現存している。

違う例を持ち出してみよう。
パヒューム(カタカナでごめんなさい)という歌手グループは三人の女性で構成されている。これをお笑い芸人の我が家の三人に一人ずつ交代してもらうとする。
ひとりめとふたりめが入れ替わる間の期間は十分に持たされ我が家の三人はパヒュームの曲と振付を完璧に覚え、我が家の三人がパヒュームの新曲を舞台で披露するとき、
これはパヒュームの舞台といえるのだろうか。
上記の主張に照らせば、パヒュームといえる、が結論になると思われるがパヒュームのファンの一般心情の通り、実のところは違う。
テセウスの船は部分の互換性が全体性を損なっていない、という点から考えられる機能背景の重要性が指摘されている。
つまり期間を十分に設けていたとしても、パヒュームというグループがもたらす高揚感やパフォーマンス、ファンの心情といった”機能”的な部分を喪失しているケースでは
それをパヒュームであると定義することはできないのだ。

これは肉体を構成する細胞が美しい好例として登場することができるだろう。
肉体の細胞は生まれ変わっているが、互換された細胞は前の細胞と機能的にも背景的にも相違ない。肉体の運用というひとつのベクトルを考えたとき
そこに互換の際に支障が生じていない。
しかし我が家の三人という細胞がパヒュームという母体にすり替わったとき、パヒュームという母体は機能背景を喪失している。

行く川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらずという言葉がある。
”水”そのものは流れ出たかもしれない。しかしそこに”川”という機能背景は存在している。
同じ人が息づき、営み、昔であれば選択をし、遊び、漁をする。そして川に名が付き、たまに神が宿る。

水は留まらなかったかもしれない。しかし我々は流るる水そのものを目前にしておきながら、川の機能に向かいあっているのだ。

そしてこれがサラスバティという神の姿と同じように、「言葉」「水」「川」とそして「道」、すべてが同じものの流れを持つ。
宇宙観点的に眺めれば同じ動きをしている違うものである。

言語は時代ともに生まれ死にゆく。言葉が変わり意味が変わり背景が変わり意図が変わる。
これが言葉の姿であり国語の新陳代謝である。
変容を常とする言葉の姿が停止するということはミクロ面においてもマクロ面においても、それは喪失や死を意味する。

ゆえに言葉には気を付けなければならない。日本語圏の言霊という言葉は、言霊の真の効用の何も示せていないまま、文化的な跳梁を許している。
これは先人の日本人たちの意識の無責任が起因していると考えられる。(叱責も詰問もするつもりはない)
自警団よろしくみやみな自律心を持ち込んで、やれ適切な言葉使えと取り締まるつもりはない。
社会的、仏教思想的因果応報構図が有名無実化し形骸化していたとしても、事言語において因果応報から逃れる術はない。

言うことよりもやっていることをみなさい、という主張には正当性がある。
しかし”言うことはやっていること”でもあるため行動と比べて比重が少ないという主張には危ういものを感じる。
額縁通りに受け取ることが重要ではなく、それが嘘であった場合、「嘘を言った」という事実が言っていることだと拡大解釈されなければならない。
先述した通り、言葉は一単語においてその背景や機能は千差万別、人の数だけ存在する。
エネルギーという言葉がその場その場で指し示す事柄が変わるように。

そういった隠喩に思いを馳せなければならない。それこそが言葉の本体だからだ。
セルフシップという題材でも語ったが、人と自己は同じベースを持っている。
人のいうことに耳を傾ける重要性と自己の言葉に耳を傾ける重要性は等価値である。昨今の情勢下で言えば、自己のほうが高いと主張してもいい。

総じて、言葉は軽んじられるべきではない。
古代の中国(他のあらゆる国でもそうだった)において文字が”ほかの教養と区分されることなく同じように”上流階級の特権であるべきと強固に主張されたように、
言葉は無意識に運用を任せていいものではない。
『主張と単語を慎重に吟味し、神経質なほど選定し、そして言うと決めたら心から言うべきである。』

長い長い八年という孤独の時間は自分から一切の対話者を奪うという一方で、自分にそういった言葉の恩恵を与えた。
自分の中で、生涯大きな功罪として存在し影響を与えていくことになるだろうと思う。

願わくば、すべての人が、教養とともに、言葉を正しく使えますように。

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