![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/133984984/rectangle_large_type_2_4e30047c211ab89ac0c38bd5f1be7a52.png?width=1200)
「授業の中の生徒指導」
どの学校でもどのクラスでも当たり前に掲示している「授業規律」。
文字通り、小中学校では、授業に対しての生徒の心構えを示す掟である。
最近はこれをよく「○○スタンダード」とも呼んでいる。
一度、授業が始まってしまえば、その焦点化された規律を生徒が遵守しているかどうかを一人一人、一つ一つ細かくチェックすることはまずない。初めのうちは生徒の気持ちが新鮮で、守ろうという意識よりも緊張感でいっぱいだからである。
授業規律は授業者と生徒の間で無言のうちに成立する契約である。
さて、授業規律の善し悪しは、生徒の態度の善し悪しで評価されることが多い。
しかし、裏を返せば、授業者の関わりに依るところが大きい。
それは、生徒が単に規律を守るか守らないかということだけではなく、授業者がどんな授業づくりをし、どんな関わりを積み上げているかが大きく作用するからである。
授業者は生徒の実態を受容し、生徒に合わせたやりとりをして授業を積み上げていくのだから、授業者が生徒と好ましい人間関係をつくれるかどうか、生徒同士の人間関係のやりとりを上手につくれるかどうかという点では、多分に授業者の指導力に依るところが大きく、むしろ授業者の力量に左右されることである。
それなのに、授業者が自らの指導力不足を棚に上げて省みず、生徒との関係の拙さを、生徒の規範意識の無さに置き換えてしまえば、益々生徒との関係は悪化し修正不能となる。
ここまで来ると、いくら授業規律の大切さを声高らかに発したところで、生徒が授業者の注意を受け入れるわけもない。
ならぬものはならぬという掟ではあるが、二者の関係性の前には、もはや無力に等しい。
「授業の中の生徒指導」は、授業規律とは全く別個なものと考えるべきである。
生徒がこの授業を大事にしたいと思わせる授業を創る物差しでなければならない。
どんな実態があるにせよ、授業者が生徒の主体的な活動を授業の柱に据えるために、生徒の「考えたい、 話し合いたい、書きたい、説明したい、動きたい」 をどれだけ創造できるか。
これが「授業の中の生徒指導」である。
間違ってはいけない。
生徒が規律を守るという意識は、授業を創りたいという願いや意欲=「授業の中の生徒指導」を土壌に生まれるものであり、それが逆転することはない。
授業規律は、一方的に指導する授業者の盾に決してならない。
生徒は正直だ。授業者の鏡になっている。
言い換えれば、生徒の姿に授業者の指導を改善するヒントが隠されている。
そのことに気付けば、後は生徒を客観的に理解し対応する準備をするだけである。
その一歩一歩に、「授業の中の生徒指導」という言葉が重なってくる。
授業規律、規範意識の醸成は大切ではあるが、それをムキになって言い張ることは生徒指導ではない。
子どもとのどんな困難な関係性の中にあっても、関わりの糸を切らさず、共に歩み、生徒の変容を捉える方法を見付け、準備し、仕掛け続けることこそが「授業の中の生徒指導」なのだ。