アラフォー徒然草:0か1だけじゃない
40年近く生きていて実感するのが、0か1かとか、正しいか正しくないかみたいな、いわゆる二元論でいえる単純な話は、人生で中々ないということ。逆にそう言い切れるものは、たいして問題にならない。いつも難しいなと思うのは、簡単にどっちといえない問題だ。
自分の身に覚えのある話から。
「英語が使える」と言う時
自分はずっと仕事で英語から逃げてきた。だから、仕事で「英語が使えます」という人は、単純にすごいなーと思っていた。実際逃げてたので、自分が関わることもなく、海外拠点の人と仕事してるなあと、遠くから眺めていた。
でもいざ、自分で英語に取り組み始めてから、使える、使えないのどっちかじゃなくて、ずいぶんとグラデーション、濃淡があるなと思った。何とか相手の会話を聞いて、なんらか返答できるレベルから、自分の意見を的確に表現して、説得できるレベルなど。その間も無限のパターンがある。
また、英語とひとくくりにしても、語彙を豊富に知っている分野でないと、途端にうまく自分の意思を表現できなくなったり。地域によって違う独特のイントネーション、発音を知らないと、うまく聞き取りできなくなったり。本当に色んなレベルの「使える」があると思う。
裕福だわというとき
小さいころから、どうせ仕事するなら、いっぱいお金もらいたいわとか、いい暮らしがしたいわとか、なんの根拠もなく漠然と思っていたけど、いったい、いくらあったら満足なのだろうか。何ができると裕福なのだろうか。今の暮らしはそうなのだろうか。
閾値、基準の話
結局、人間が生きてる世界は、そんな単純じゃない。そこに二元論で簡単に結論をつけることはラクだけど、色んな事を落としてしまうと思う。
大事なのは「自分」の「閾値、基準」なんじゃないだろうか。どこまでいったら自分はOKなのかという基準をクリアに持ってないと、結局、結論を出すのは難しい。
人生、いろんな考え方がある、あいまいな世界。短絡的に結論づけるではなく、ちゃんと自分で考えた基準をなるべく持ちたいと思う。少なくとも自分にとって大事な問題については。