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永遠の一秒

 一週間の疲労から開放された土曜日の朝は、遅く起きてもいい。息子のにっともややお疲れモードで、今日は自宅でのんびりデイだ。
 保育園の上履き洗い、の、ついでに園からのお便りにも目を通す。

「バスケの試合の無料招待クーポン、だって」

 岐阜の男子バスケットボールのチーム、岐阜スゥープスのホーム試合。岐阜市に住まう幼児とその家族が対象。いつだろう。今日と明日か。

「にっとさん、バスケ見に行く?」

 一応、声はかける。形式上、確認しただけだったのに、

「行く。いつの何時?」

 手にするミニカーから顔を上げ、こちらに駆け寄ってきた。

「今日だって。お昼の二時から」

 彼にとってバスケットボールは、数年前に再放送で見たスラムダンクだ。

「バスケって安西先生だよ。行くの?」

「知ってるよ! 行きたい行きたい」

 承知の上とあれば、本当に観戦したいのだろう。夫のろうすも午後からは予定が空いている。ことのいきさつを連絡すると、オッケーを得た。

 無料招待クーポンで入場できるのは自由席とある。会場は自宅から近い。慌てて出かけなくてもいい……かもしれないが。駐車場はどこだろう、自由席の倍率は、とのろうすの疑問が、試合開始一時間半も前にわたしたちを出発させた。行ってみれば駐車場も広く、入場口付近にはキッチンカーが五台ほど待ち受けていた。

「なんか腹減らない?」

 普段より弾む声色のろうすは、キッチンカーのメニューを読み上げる。乗り物おたくもさまざまな面構えのキッチンカーに興奮し、一つひとつの特徴を話す。
 にぎわう人の輪に混じり、そろいのティーシャツを着た小学生たちと列を成し、わたしとろうすはチリドッグ、にっとはポテトを購入した。
 食べながら周囲を見やる。曇り空の下でも寒くなかった。グッズを全身にまとう女子グループには、へそ出しファッションの子もいる。推しなのだろう、選手の名前が書かれたタオルを肩にかけ、推しなのだろう、写真缶バッジでチームのロゴマークをハート型に囲んでいる。よその土地のお祭りに迷いこんだ気分だ。勝手がわからないのに不安はない。ふわふわとした気持ちが、体を内側から暖めている。

 発券したチケットをもぎってもらうと、次に立つ人がトートバッグをくれた。次はパンフレット、さらに次は抽選券。グッズ売場と横並びに、飲食物も店を連ねていた。二階通路にも軽食屋は続き、とりあえずは素通りする。二階席はすべてが自由席だ。大音量のBGM、観客のざわめき、DJにも似たなめらかで饒舌なアナウンス。

「あっちだとアウェイになるしな」

「そっち行くんか? 得点板が見にくくない?」

「真ん中の席が見やすいんやないか」

 わたしが右へ左へうろたえる度に、ろうすがなにかともの申す。

「どこらへんがいいかなぁ」

 尋ねてみると、

「おれはどこでもいいよ」

 にこやかにのたまう。
 ぐいっとろうすをわたしの前へ押し出す。先を歩かせる。ホーム側のゴール付近、ちょうどカーブに差しかかる席に三人並んだ。




 試合開始十五分前、興奮気味にろうすが早口にまくし立ててきたが、アナウンスがすべて隠した。コートでは岐阜の選手と、相手選手がボールとゴールネットと向き合っている。誰も彼もが投げれば全部すぽりと入る。

「そんなことある?」

 思わず口に出た言葉を、アナウンスをかいくぐりろうすが拾う。

「ボール同士がぶつからんかったら全部入るらしい」

 そんなことある?
 あるのだ。いま、目の前に。

「そういえば相手はどこのチームなの?」

「パンフレットに書いてあったぞ。徳島ガンバロウズだって。バスケなんてはじめて見るな。知ってる選手が一人もいないけど大丈夫かな」

「ねぇママとパパ、徳島ってなに?」

 だんだんやかましさに慣れてきて、家族の会話が成り立つ。

「徳島県っていうところがあるんだよ。帰ったら地図で見てみようね。あの赤チームが岐阜で、青チームが徳島だよ。あ、はじまるよ」

 笑顔満開のチアガールのダンス。照明とスモークが派手に演出する選手入場。ろうすだけでなく、わたしだって誰一人として知らない。なんならわたしの知るバスケットボールは、テレビから流れてくるのをちらっと聞いた程度のスラムダンクと、漫画やアニメに熱を注いだ黒子のバスケがすべてである。
 試合は唐突にはじまった。

 ――早い。

 選手もボールも飛んでいる……いや、飛んでいるなんて言葉はふんわりしている。軽々と突き抜けていく、そうだ、突き刺す勢いで試合を展開する。走る一歩が大きい。ぶんと遠くへパスを出し、すれ違い様にチームメイトへひょいと渡す。かと思えばボールを手に立ち止まり、しんとなにもかもが止まる数秒もあった。小学校や中学校の体育の授業でもバスケはやった。ああいう瞬間、みながみなとにかくボールを奪おうと群がったものだけど、行動に移せばいいというものでもないと知る。
 目まぐるしくボールは岐阜の手に、徳島のゴール下に、シュート、入る、ファウルとアナウンス。
 このアナウンスがすごい。観客を煽りながら実況のように状況を丁寧に伝え、ファウルの度になにが原因でどのチームの何番と何番がどうでと噛み砕き、スポーツに無縁なわたしにもわかりやすかった。出産前はよくろうすとプロレス観戦に行っており、名残でわたしはろうすと話すときに彼を「リングアナ」と呼んだが、バスケはリングで行わない。なんと呼べばいいのだろう。
 にっともとなりからわたしにもたれながら「入った!」「走るの早い!」「あっ転んだ!」「数字が三になった!」と声を上げる。他の観客の慣れたメガホンに、ろうすも手拍子で加勢する。
 目が速度に馴染んだ頃、ふと徳島チームのゴール付近に時計を見つけた。まだ試合開始から二十分がたっただけだった。二十分! 三十分以上は見ているつもりだった。それだけ試合展開は早く、よく「まばたきを許さない」と言うが、本当にまばたきをしようものなら状況が変わっている。黒子のバスケでもそうだったなと思い出す。一秒でもあれば二点入れることができるのだ。十分間はなんやかんやで何度も止まり、刻まれ、また動き、加速しても一秒は等しく一秒で、選手たちは重力も体重もないかのような軽さで駆ける。
 いつしかにっとは興奮疲れしてしまい、わたしの膝を枕に眠っていた。岐阜優勢で第二クォーター終了後、休憩時間にろうすは売店でレモネードを買って戻ってくる。わたしにはアイスカフェラテのお土産をくれた。ドリンクにはチョコレートがついてきた。受け取りストローを口に含むと、思った以上に吸い込めた。わたしも静かに興奮していたことに気づく。喉がかわいていた。

 試合が再開される。選手の追い方がつかめてきた。徳島の選手が岐阜のゴールを阻止する。金髪の選手がその足で徳島のゴールへドリブルで向かう。一直線。三歩か四歩ほどでゴールからゴールへたどり着いてしまったように見えた。髪色も相まって、光線が光の早さで突き抜けたような光景だった。誰も周囲へ寄せ付けない。すと立ち止まりボールに両手をそえて打つ、ゴールへ、ではない、ゴール脇へ。視線を急ぐとその先に――まったく気がつかなかった。ノーマークの徳島の選手。ボールは赤髪の彼に吸い付いて、ゴールのネットをくぐる。爪先から脳の先端までがぐるりと震えた。リアル黒子のバスケだった。主人公である黒子の影の薄さを利用する。花形の選手である火神が人の目を惹き付けて、黒子の影をより薄くしておく、あの戦法。徳島の赤髪選手は決して黒子のような薄い存在ではないけれど、さっきのプレイ、明らかに会場中の視線は金の光が集めていた。

 コート上の誰もがバスケの神様に愛されている。そう思った。徳島の点数が追いかけてくる。第三クォーターが終わり、緊張感も増し、アイスカフェラテを飲み干すと、下腹部に力が入る。トイレ、と頭をよぎるも、せっかく寝ているにっとをそっとしておきたい。終わらない一秒が重なる次の十分間を、どうにか耐えることにした。
 追い越され追い越しを繰り返す試合展開。メガホンの鳴る音と歓声とが燃えて、第四クォーターは七十五対七十五でホイッスルが区切る。五分間の延長戦。にっともがばりと起き上がる。

「ごめん、寝ちゃった」

 今度は膝に座らせる。

「大丈夫だよ。いま同点だから、どっちが勝つか決めるところだよ」

 メガホンは音を越えて唸りと化す。徳島の八番は今日ずっと、フリースローを確実にものとしていた。この形がくっきり見えそうながちゃごちゃの唸りを、まるで知らんぷりしてのける。
 アナウンスもさらに盛り上げる。選手の鋭いまでの集中力が、見ていて痛苦しい。決めろ、決まる、足りなくなる、追う。結局はこのオーバータイムでも決着はつかず、八十一対八十一の二度目の延長戦へ。

「すげー、なかなかないぞ!」

 ろうすの興奮を上回る歓喜の渦が、メガホンから放たれる。わたしも無意識に手を握っていた。手拍子に熱がこもる。度々刻まれる永遠の五分間。ずっと見ていたかった。が、トイレも心配を増す。
 徳島がリードし、不思議と冷風を感じた。空調かと思ったが、風というわりにそよがない。冷たい空気が緩やかに渦巻く感覚。こんなにみんな、熱いのに。……まさか。メガホンが吠える。そよがない風。メガホンを叩くことで、会場をただよっている。
 風が選手の背中を押し、ボールをゴールへ運ぶ。が、またしても決着はつかない。八十八対八十八。トリプルオーバータイム、はじめてのことだ、アナウンスは上ずっている。

「ちょっとトイレ」

 さすがにこれ以上は永遠と向き合えない。にっとも連れてトイレへ急ぐ。間に合った。ついでににっとも間に合った。
 熱狂に戻る。ろうすが試合運びを教えてくれているが、もはやなにも聞こえない。フリースローが決まる。点差をじわじわ広げていく。百二対九十六で、岐阜が勝つ。

「すげーおもしろかった! なんか無料だしってくらいで行っただけだけど、明日も試合あるし、行くか!」

 ろうすはすっかりはまってしまった。四番は見た目もプレイもリアルゴリだった、とスラムダンクになぞらえて喜んでいる。岐阜の四番は開始早々、ダンクシュートで、ゴールを飾るスポンサーの看板を壊してしまった。あの迫力たるや。

「え、明日もあるの? ぼくも行く行く! おもしろかった」

 にっともすっかり乗り気である。早すぎて難しかったけど、ずっと楽しかったと笑っている。

「あんだけ格好よかったら女子が推しを見つけるのもわかるなぁ」

 しみじみ言うろうすにうなずく。

「そうだよね、グッズもほしくなるよね。わかるよ」

 わたしにも推しができてしまった。だから男二人の明日もコールに、快く許可を出してしまう。ただ、わたしの推しのグッズは販売されていなかった。そりゃそうだ。相手チームである徳島の二番、光線を放つ金色。塚本雄貴選手だから。

 そしてはじめてバスケットボールの試合を生で観戦し、わかったことがある。

 黒子のバスケの登場人物、スリーポイントシュートにこだわる緑間真太郎の射程距離、おかしいやろ。

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