短冊なに書く?
金曜日に息子を迎えに行くと、七夕の短冊を二枚、持ち帰ってきた。
年少組の学級通信には「職員室前の廊下用と、玄関前用に二枚お配りします」とある。提出期限は翌週水曜日。この土日の宿題となった。
わたし「りぶさんど」の息子だから、彼を「りぶにっと」とする。
にっとは一歳から保育園に通っている。二歳児クラスまで備わった保育園だったから、今年から新しい保育園に入園した。
以前の少人数制の園とはなにもかも違う。
去年まで一クラス六人の環境にいたが、今年のクラスメイトは二十六人もいる。担任の先生は二人配置されていても、それだけの数の三歳児を見守るのは難しい。
隔週で配られる学級通信には何度も「自分でできるようにしましょう」とある。かばんの中身をそれぞれ決まった場所におさめる、個包装のおやつの封を開ける、服の着脱、脱いだ服をたたむ……。
読むたびに頭の中が固まってしまう。やらせたことのないことを、思い知らされる。そうか、それ、自分でできなくちゃいけないんだな、と。
前の園でも自分でやるよう促してもらっていた。先生が根気強く関わってくださり、のびのびと成長したものだ。
新しい園では「じゃあ自分でやってね」と先生が声をかけ、しばらく集団の中で考えさせると、にっとは自分で着替えたり片付けをしたり、スムーズにできているらしい。どうしてもできない子には、最終的に先生が手を貸す。にっとは個包装のお菓子の封を開けられない。一旦は自分でやってみてから、先生に手伝ってもらっていると聞いた。
そんな中で、この短冊。
学級通信には二枚配る旨、水曜日までに提出するよう書かれてはいるけれど。
親がペンを持ち代筆すればよいのか?
はたまた、にっとも一緒にペンを握って、共同制作するべきか?
前の園でも短冊を書いた。わたしが。にっとの普段の言動から、願い事を考えて。〇歳から二歳までが通う園だから、当然他の子たちも、親の文字で願い事をひらひらさせていた。
三歳はまだ文字が書けない。でもこれは、季節の行事を身近に感じてもらうための宿題なのではないか。暑くなったら夏がきて、七月七日は七夕なのだと学ぶ機会だ。短冊に願い事を書いて、夜空を見上げて、お星様が叶えてくれるよ、だから叶うように頑張ろうと、自然や時間の流れの中に生きていることを体感するための。
「にっとくん、これ、短冊にお願い事を書くと、お星様が叶えてくれるんだよ。なにをお願いする?」
「……え?」
乗り物大好きマンは、緊急自動車のテレビ番組に夢中で、顔をしかめる。当然の反応だ。彼は今、テレビ以外に意識を向けたくない。それに「短冊」だの「願い事」だの、普段は使わない言葉が並んだ。母がなにを話しているのか、理解ができないのだろう。
「この紙に、ああなりたいなとかこういうことしたいなとか書くと、お星様が任せて! って叶えてくれるの。やりたいこととかなりたいもの、ない?」
過去二回の短冊には「新幹線に乗れますように」「いろんな働く車に乗れますように」と書いた。新幹線はコロナの兼ね合いもあっていまだ叶わぬ願いだが、働く車はあちこちのイベントでいくつかに乗れた。
今年も乗り物関連だろうと思っていたけれど、にっとは一瞬だけ間を開けて、きっぱり言った。
「お洗濯が上手になりたい」
まっすぐ真面目なまなざしが、わたしに向いている。
「お洗濯?」
思わず聞き返す。
「お洗濯上手になりたいですって、ママ書いといて」
胸がぶわっと熱くなる。
手伝ってくれるつもりなのだろうか。
共働き家庭の一人っ子。
大人が家事をしている間、一人で遊ぶ時間も多い。呼ばれて待ってもらうことも一日に何度でもあるし、すべての甘えを受け止められてはいない。寂しい思いをさせているとは、感じていた。
大人が子供の世界に踏み込みきれないなら、子供が大人の世界に混ざろうなんて。
小さな小さな存在。でもそうか、もう年少だもの。
身の回りのことは自分でやらなくちゃならないし、洗濯物ももしかしたら、その一環だと捉えたかもしれない。
お菓子の封を自分で開けて、ペットボトルのふたも自分で管理して。これから冬になって上着を羽織って通うようになれば、園の教室で自らハンガーにかける技術も必要になる。
自分の力で暮らせるように。
暮らしていけますように、と願うのか。
「いいね。お洗濯、きっとできるようになれるよ」
だから、まず。
「お願い事、ママと一緒に書こう」
自分の宿題を自分でやるポーズだけでも、見せて。
一度は眉根を寄せたにっとも、赤と黄色、二枚の短冊を目にすると、母のひざに腰を降ろした。二人で一本のボールペンを握る。ひらがなを書く練習にもなるな。思いながら、ペン先をすべらせた。
「ママ、もう一個は新幹線で富士山を見ますって書いてね」
「渋いね」
富士山は二つとなりの県だ。いまだ叶わぬ新幹線。……今年こそは。