アフターコロナを夢想して。
こんばんは、りおてです。
画像は、初期ルネサンス・フェラーラ派の画家、エルコレ・デ・ロベルティの《聖セバスティアヌス》です。ウフィツィで撮影しました。本記事とは疫病繋がりです。
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新型コロナウイルスが流行り始めてから早数ヶ月。道ゆく人のマスク姿にもすっかり慣れ、この疫病は、徐々に日常の中に取り込まれ始めているように思う。
こんなことを言うと不快に思う人がいるかもしれないけれど、私は正直なところ、一度もこのウイルスに恐怖を感じていない。
元々そういうことに鈍い性格だし、週に一度病院に通う時以外は全く家から出ないからというのもあるだろう。それに、家族が罹患したとして、私には関係ないと思える程度には疎遠だ。守るべきものも、今はない。
とにかく私は、この死に至るかもしれないウイルスについて、全く気にかけていなかった。なんならいっそ、死ぬのはウェルカムである。今日もよろしく、希死念慮ちゃん。
いや、勿論マスクはする。求められれば店頭で手の消毒もする。
でもそれは自分のためじゃなく、万が一自分が潜在的感染者だった場合に、他人様に移さないためだ。
もし世界に私と私の嫌いな奴しかいなかったら、コロナが流行ろうが何しようが、別にマスクも消毒もしない。くたばれ世界。
「自分だけは罹らない」と思っているわけじゃない。「罹ってもどうでもいいや」と思っているのである。
“私にとっては”ウイルスよりも、毎日頸の後ろから這い上がってくる「無能」「無価値」「死ねばいいのに」の声の方がよっぽど身に迫る問題で、そこから湧き起こる自殺衝動をやり過ごすことの方がずっと大変だ。
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このコロナ禍で、鬱症状が悪化した人も、逆に少し快復した人もいると聞いた。
無職的には、みんなが家にいるから、働けない自分を多少なりとも肯定してあげられる、と、安堵すべきなのかもしれない。
でも、私は別に、そうも思わない。
働けない事情なんてひとりひとり違うし、みんなが働いてても働いてなくても、私自身が働けないことに変わりはないし。どうやら私は、「みんなと同じで安心」というタイプではないらしい。
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新型コロナウイルスによって、不可逆に変えられてしまった世界で、みんなが思い思いに考え、行動している。
私は、引きこもった部屋の、スマホという小さな窓からそれを眺めることしかできないけれど、そこから見える世界では、みんなが、「みんな不安なんだから」と口にしている。
でも、ここにひとり、全然不安じゃない人間もいる。
もしコロナ禍の世の中で、周りと同じようにコロナを不安に思えない人や、周りと同じように引きこもりに安堵できない無職がいても、どうか気にしないで欲しい。
コロナを「怖がれない」人がいたっていいし、周りが引きこもってても「安心できない」無職がいたっていい。
「周りと違う」自分が嫌なら、安心して。ここにそんな人間が少なくとも1人いる。
アフターコロナの世界で、どうかあなたたちと出会えますように。
その時は、マスクも消毒も、要らなくなっているといいね。