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ちがう国の女王の王座のかたすみで眠る

違国日記の映画を公開初日のレイトショーで観に行った。観たいな、とは思っていたから、初日がちょうど金曜日でラッキー。

原作が好きで何度も読み返していて、映画も映画で良いだろうなぁとなんとなく思っていたけれど、やっぱり良かった。いや、やっぱり、なんていうと予想通りみたいに聞こえてしまう。実際は予想以上に良かった。原作を再現しているからとかじゃなくて、映画は映画として。違国日記を違う角度から感じられた気がして、改めて大好きな作品だなと思った。



ここからは個人的な感想になるけれど、自分の中で違国日記に救われた部分がある。

学生じゃなくなったあたりから、薄々感じていた自分のこと。
この先もしかしたら「人を好きになる」ことが無いかもしれないという思い。厳密に言うと、「人として好き」はたくさんある。でも慎生ちゃんみたいに好きな人いる?と聞かれて誰かを思い浮かべることはできない。結婚したいとか、触れたいとか、そういう恋愛感情を伴った「好き」がもう自分には生まれない気がしている。

元々そのことを悪いことだとは思っていなかったけれど、改めて、それでもいいのかも、と思えた。

私はきっと、慎生にとっての朝のような、朝にとってのえみりのような、そういう存在とは出会えていて。そういう関係を心地よく思っているから。違国日記の中で、特に映画で実際の人間が「違う人間だから理解はできない」けれど、人として「互いを愛している」姿を目の当たりにして、ああこれがいい、と思えた。

関係を表す最適な言葉が見つからないくらいがちょうどいい。

私にとって「好き」という言葉に乗せる感情は恋愛に結びつかないことが続くだろうけれど、それでも人と共に生きていくことはできるし、大切に思う人に大切だと伝えることはできる。大事に思ってもらえていることも有り難く思える。そんな人との結びつきに寄りかかりすぎることなく、でも確かに支えてもらいながら生きていく。

改めて、それでいいんだと思えたことが救いだった。



タイトルにも引用している、違国日記の1巻で執筆中の槙生ちゃんのそばで眠る朝の描写がとても好き。ちがう国の女王、とは言い得て妙だと思う。

そんな夜を好んでいる朝の感覚がわかるから、読んでいてすごく心地よい。だから、映画で朝に会えて嬉しかった。言い表し難い感情も、年相応な素直さも、全身が朝だった。

映画を観て、またひとつ違国日記を好きになった。
素敵な映画をありがとうございます。

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